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現代を生きる武士として

例え泥臭くても、美しく輝いている

武術の本来の姿とは

煉誠館では、武術を学ぶ人は「暴力の信奉者」であってはならないと考えています。

確かに、武術の体系の中心には敵を倒すための技法があるわけですが、修行で得た力の活かし方は、扱う者の思想に委ねられます。上辺の用途に囚われて、いつまでも暴力的な解釈に留まるのは良くありません。現代社会において、暴力で解決できることなど、ほとんどありません。

まじめに学び、自分と向き合い、日々の生活に応用することで、少しずつ武術への理解が深まっていきます。望むのであれば、単なる闘争の手段を超えた世界観が広がっています。敵を倒そうと願うほどに敵を倒せない。得ようと渇望するほどに得られない。その現実に直面した時、知識ではなく体感として、貴重な感覚を得ることが出来ます。

  • 武術を学ぶ意義 イメージ画像1

    勝利への執着を消すための型稽古

人間としての在り方に迫る武術

また、武術者は武術だけを学べば良いというわけではないとも思います。武術と平行して、心を修めるための様々な知識を得る努力も大切です。古人の思想や格言などに耳を傾け、人間としての在り方を模索していく。その姿勢が、武術の質を高め、自身の成長を増進してくれます。
特に、日本の武士が学んできた仏教や儒学などは重要ですから、書物や実践を通して学んでいただければと思います。

「敵を打ち倒す」という武術の一面のみを追求する人は、社会に有害な人間になってしまいます。社会の仕組みや人情の機微を理解せず、暴力を問題解決の根幹として採用するのですから、それは明らかでしょう。強い力、強い心を求める人は、社会の一員としての責任を考えなくてはなりません。

煉誠館が指導する大東流は、古来、武士が心身を修めるために学んできたそれと同じ流れを汲んでおります。そして、常に目標としているのは、「現代を生きる武士」として恥ずかしくない生き方をする、ということです。とても難しく、人それぞれ許容量は違いますが、少なくとも「自分が楽しければ人に迷惑をかけようが悲しませようが関係ない」といった考え方は拒否します。

社会的な地位、財産、過去の経歴などとは無関係に、それぞれが天に与えられた役割を全うする。全ての人間が社会的成功者になれるわけではありませんし、人格者として大成できるわけでもありません。むしろ、その逆の方が多いでしょう。ですが、自分なりの人生を懸命に生き、悲喜憂苦の現実と向き合いながら、少しでも良い結果を残そうと努力を続ける人は、例え泥臭くても、美しく輝いているのではないでしょうか。

すでに武士という階級は失われているのに、何を馬鹿げたことを……。そう仰る方もいらっしゃることでしょう。が、古来の武士が大切にした価値観に学び、己を律し、優しさを胸に日々を歩む人は、すべからく「精神的武士」だと思います。煉誠館は、そのような精神的武士が増えることで、世の中があたたかくなると信じています。

ままならない人生を、より有意義に、楽しむために。武術を一つのきっかけとして、精神的武士として歩まれる方とつながっていきたい。それが、煉誠館の願いです。

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