競技武道や格闘技との違い
他流と比較した煉誠館の特徴
例え稽古でも他人との争いを慎む
現代の日本には、武道や武術を指導している流派が数多く存在しています。格闘技のジムを含めれば、その数はさらに膨れ上がります。
空手、柔道、剣道、合気道、日本拳法など、それぞれの流派で指導内容は千差万別です。教伝のスタイルも、本格的な技術習得を目指す道場から、気軽な健康法として楽しめる教室まで、多岐にわたります。
このような状況の中、煉誠館においても独自の体系に沿って指導を行なっているのですが、一般に普及している武道各派との違いを一つ挙げるとしたら、「競技での勝利を目的としない」ということが大きな特徴かもしれません。
煉誠館の武術には、原則として競技という考え方はありません。
稽古の一環として、自由に攻防を行う模擬戦を行うことはありますが、それはあくまでも技術の確認と向上が目的です。
もちろん、勝負の場において負けることを良しとするわけではありません。いざ戦いになれば、どのような手段を使ってでも負けない、というのが武術者の基本的な姿勢です。
武術が念頭に置く戦いというのは、陰惨で泥臭いものです。隠し武器で目潰しをしたり、後方から金的を攻めたり、複数人で一人を袋叩きにしたり。
人間の美意識に反するようなことでも、生き残るためなら何でもやるべきというのが武術です。
そのため、戦いを可能な限り避けるというのが武術者の一貫した行動規範となります。戦いは狂気の沙汰であり、人間として避けて通るべきものであるということを心に刻んでいるために、他人との争いを慎むのが嗜みとなります。
競技を否定しているのではなく、競技によって得られる成果よりも戦いという行為に対する思想性を重視している、と言えるでしょう。
有り体に言えば、恐ろしくてえげつないと思うわけです。現代日本では犯罪として法に裁かれますし、通常は勝っても得るものが少ないので、誰かと争うなんて嫌なのです。
が、誰しも、人生において生命の危険を感じる時が訪れない保証はありません。絶対に負けられない勝負と直面しなくてはならない瞬間があるかもしれないのです。
可能な限り争いを避けて、消耗することなく、いずれ訪れるかもしれない「その時」のため、ひたすら力を蓄えるというのが、煉誠館の武術に対する考え方です。