煉誠館が求める強さ
己が求める強さとは一体何か?
目先の勝敗を追わないこと
武術を志すのであれば、「強さ」という概念に対して、自分なりの考えを持っておくことが大切です。
例え武術の本質が精神の向上であったとしても、宗教や自己啓発ではなく武術を選んだからには、心のどこかに「強くなりたい」という想いが必ず存在していることでしょう。
ですが、「己が目指す強さとは一体何か?」と問うた時に、武術が内包するところの強さの形を瞬時に答えられる者は少ないのではないでしょうか。
曰く「喧嘩に勝てるのが強さだ。」
曰く「自分の弱さに打ち勝つのが強さだ。」
曰く「諦めず最後まで自分の信条を貫くのが強さだ。」
人それぞれ、自分なりの答えを持っているでしょうが、果たしてそれは、真の意味で「強さ」と言えるのでしょうか?
確かに、それらも強さの一つの形でありましょう。他者や自分と戦い勝利を収めれば強さを実感出来ますし、揺れずに貫かれた心も強靭さを感じさせるに違いありません。
ただ、それらはあくまでも強さの断片であり、武術が目指すところの強さとは違います。少なくとも、煉誠館が目標とする強さの形ではないのです。
対象が自分であろうが他人であろうが、目先の勝敗を主眼に置いている時点で道から逸れることになります。争いは争いを生み、終わりがありません。終わりのない争いを繰り返すうち、疲弊し、心は歪み、あるべき人間の姿からは遠のいてしまいます。そんな結果をもたらすものが、果たして強さと呼べるのでしょうか。
求めないことが強さにつながる
確かに、人生には戦って勝利しなければならない時もある。いくら理想を唱えても、弱肉強食という大自然の理論を鑑みれば、勝利を軽視するのは弱者の論理であるというご意見もありましょう。
ですが一方で、「勝利は求めれば求めるほど遠ざかっていく」という法則も、この世界には確かに存在しています。武術を一定以上の段階まで習熟すると、それがはっきり理解できます。勝利に執着すると、逆に勝てなくなる。つまり、勝利を第一義とする強さを求めることは、逆に強さを失うことにつながるのです。
それはもう、強さとは言えないばかりか、武術を学ぶ前よりも退化している。
武術が教える業(わざ)の世界では、勝利への執着から離れ、敗北の恐怖からも離れ、心の穢れをそぎ落としていくごとに、思いがけない成果が得られます。
不思議なことに、勝利を思わず、敵を思わず、ただ己の天命を受け入れるという消極的とも思える姿勢が、武技を良い方向へと誘導してくれるのです。
これは、武術の業という枠組みの中での気づきですが、武術が世界の法則を内包していると信ずる煉誠館では、その気づきを「人生」という領域まで拡大して解釈します。 ゆえに、人生においても、自分本位な勝利への執着を捨てることが、真に「強さ」を理解するために重要であると信ずるのです。
人の領域で考えず、世界の法則をあるがままに受け入れる努力をしながら、天を相手にする。そこに至り、心は本来の輝きを放ち、深い感謝の気持ちや、他者への慈しみが表現されます。武術者の強さは、他者への優しさと同義です。
煉誠館が求める強さの形とは、そういったものです。