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山鹿素行の「士道」が定義する、平和な時代の武士の職分

2019/06/06

前回は、泰平の世となった江戸時代において、戦闘者たる武士が何をもって身を立てていったのかという点について紹介しました。戦国乱世では名誉と直結していた合戦での働きが否定された世の中で、生き方の転換を迫られた武士たちが見つけた答えの一つに「学問(儒学)」があったというお話でした。

⇒【前回:弓馬の道から四書五経へ 泰平の江戸時代を維持した儒学と武士道の関係】

江戸幕府は、泰平の世に相応しい気風を生み出すために、官学として儒学を採用しました。公認されていたのは儒学の中でも「朱子学」でしたが、上下定分の理を根幹とするその思想に疑問を抱く武士も少なくなかったようで、陽明学や古学など、それぞれが支持する学派の論理を独自に探究する武士も現れました。その中には「山鹿語類」の論者である山鹿素行や、陽明学の理に従って幕府役人の横暴に異を唱えた大塩平八郎などがいらっしゃいます。

いずれにしても、儒学は武士が修めるべき基礎的な教養であると認知され、その風潮により、かつては名声を得ていた武辺一筋の生き方では、武士として認められにくくなっていったのです。

この辺りは義務教育の授業でも習う内容ですので、前回は、日本史の復習のような内容になってしまいましたが、今回は当時に記された武士道書、特に山鹿素行の思想を紹介しながら、儒学の影響を受けた武士がどのような考え方をしていたのかを掘り下げてみたいと思います。

江戸時代の武士が担った三つの役割

この時代の『武士道』を知る上で、前提条件として、まず最初に知っておきたいことが一つあります。

それは、当時の武士の役割です。戦場で活躍する機会が激減し、学問が基礎的な素養となったわけですが、では実際に武士は普段はどのような暮らしをして、何によって日々の糧を得ていたのでしょうか

平和な世の中になったとはいえ、本質的に武士が「戦闘者」であったことは前回お話した通りです。戦争があった時に、いつでも出動できるよう待機しておくことが武士の第一の仕事でした。

であるならば、戦争が起こらない平和な時期は、武士は「何も仕事をしていない」のと同じです。武芸に励んでも、敵を討ち取ったり、隣国の陣地を手に入れて褒められるということもないわけです。
徳川時代は、原則として戦闘行為を禁じていたわけですから、武士が戦闘技術を磨くことを無用の長物と捉える人もいたことでしょう。

当時の武士は、商売などで直接生活の糧を得ていたのではなく、一定の収入が保証される給与制でした。給与は原則として米で支給され(禄、知行などと呼ばれます)、それをお金に換えるなどして、合戦に必要な武具や馬を調達し、従者を雇い入れていました。
が、合戦が起こらず平和に慣れてくると、その必要性も薄れてきます。常に戦闘準備を怠らない真面目な武士もいましたが、衣服や酒食に金をかけ、贅沢な暮らしをする武士も現れていたようです。本来は、戦闘準備を整えるために支給されていた給与ですが、その目的以外に使っていた武士も少なからずいたのですね。

が、武士に支給される米は、本を正せば農民から徴収した年貢です。農民が懸命に働いて差し出した年貢は、国を正しく運用し、有事の際に守ってもらうための費用であって、武士を遊ばせておくためのものではありません。何らかの役に立ってもらわなければ不満も溜まりましょう。

この点が、当時の武士も考えを巡らした問題であり、折り合いをつけるべき課題でした。戦国以前より続いた戦闘者としての自負は捨てませんが、それに固執していては遊民と変わらず、面目が立ちません。戦闘者として以外に、自分たちの存在意義を明らかにする必要に迫られたのです。

そこで取り組んだのが、政治行政への進出でした。それまでも、武士は為政者として国の運営に関わってきましたが、江戸時代にはそれが顕著となり、国家運営の中枢は武士が担うことになります。平和な世相の後押しもあり、法律の整備、財務、訴訟、土木工事、治水など、必要に応じて役職が拡大していきました。今で言う政治家や官僚などの役人仕事を、武士が兼務するようになったのです。

そしてもう一つ、武士が自身の存在意義を得るために選択したのが、「人間性を磨いて人々のお手本になる」という役割でした。
これは、今回紹介させていただく「儒教的な武士道」に見受けられる傾向なのですが、武士は民衆の年貢(税)によって生かされている身であるのだから、「己の心身を正しくして、その徳によって国を平和に保つべきである」という思想です。

お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、これはほとんど儒学の「修身斉家治国平天下」と同じです。往年の武士たちは、儒学を探究する中で、これこそが武士の生き様であると定めました。己を磨いて三民(武士以外の農工商の人々)のお手本になるからこそ国は治まり、また税金で衣食住を賄っていることに負い目を感じなくてすむと考えたのです。
これは儒学に寄った思想ですので、必ずしも武士の共通認識ではなかったでしょうが、朱子学が官学となっていた江戸時代においては、賛同する人も多かったと考えられます。

以上のように、江戸時代の武士は「有事の際に民衆を守る戦闘者」「行財政に携わる役人」「儒学を基盤に人間性を磨く求道者」という三つの役割を担いました。

戦国乱世においては、何よりも戦闘上手であることを求められましたが、江戸時代以降それだけでは認められなくなり、ここに武士道思想の大きな転機があります。
武に偏っては正しく国を運用できない。文に偏っても民衆を守ることが出来ない。「文武両道」が武士に課せられた目標になったのです。

では次に、当時に記された武士道に関する書物を紹介しつつ、当時の武士がどのような思想で生きていたのかを探ってみたいと思います。

山鹿素行の「武教小学」と「山鹿語類」

江戸時代の武士道を語る上で外せないのが、古学派の儒学者で軍学者でもあった山鹿素行(1622年8月16日~1685年9月26日)の存在です。まだ戦国の名残がある江戸時代の初期に活躍されており(江戸幕府が開かれたのが1603年)、後の武士たちの思想に多大な影響を与えました。

儒学者としては、6歳より四書五経七書を学び、生涯を通して多くの書を残されています。一方、軍学者としては、小幡景憲(甲州流軍学の創始者で甲陽軍鑑の成立にも影響を与えたとされる)や北条氏長(甲州流の軍学者で、北条流兵法の創始者)に師事して後に山鹿流軍学を創始、多くの門人に教授されました。
後代には、吉田松陰や乃木希典大将など高名な武人も山鹿素行の軍学や思想に傾倒され、代表作の一つである「中朝事実」は、幕末の尊王攘夷運動思想にも少なからず影響を与えたとされています。

現在では「古学派の儒学者」という位置付けで語られることが多い山鹿素行ですが、江戸時代当時は、儒学者というよりは軍学者としての名声の方が高かったようです(儒学者としては、ほとんど知名度がなかったという説が有力です)。が、山鹿素行の軍学は、単なる戦闘の術を離れて、武士はどうあるべきかといった思想面をも含んでいました。山鹿流師範家であった吉田松陰の講義録を読んでみても、その内容が幅広く武士道論にまで及んでいることが分かります。そして、その思想の基盤となっているのが儒学(古学)です。

山鹿素行の思想は難解で、その特徴を簡潔に言い表わすことなどとても出来ませんが、あえて一つ挙げるとすれば、それは「誠」という考え方です。
誠と聞けば、「正直で偽らない」「善なる心、真心」といった印象を受ける人が多いと思うのですが、山鹿素行が語る誠は

誠とはやめようとしてもやめられないという意味を持っており、純粋であって夾雑物(きょうざつぶつ)を含まず、いかなる時、いかなるところにおいても妥当するものであり、必然的であるから、ほかのもので代用するというわけにはいかないところのものである。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P445) 中央公論社」

といった説明がされており、大まかにいえば「人間の本能的な欲望」あるいは「世界の根源的な情動」のような意味であると私は解釈しています。

代表的な論述である「山鹿語類」の中でも、

一般に世間では、律儀に信をたてることを「誠」だとばかり心得ているらしい。もちろん、うそをついて相手をだましたり、計略を用いたりするのは君子たる者の大いに嫌うところであり、それは勢いものごとを力づくでやろうとする傾向につながるのだから、王者の道とはいえない。だが、誠が深い場合には、偽ったとしても誠となることがあるのである。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P171) 中央公論社」

と、善なるものといった趣の誠と本来の意味は異なっていると言明され、この誠という考え方を基調として、その誠の発露である「仁と義」を探究(格物究理)、実践していくことが肝要であると繰り返し説かれています。

この場合の仁とは

他をあわれむ心がほどよく現れたもの

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P243) 中央公論社」

であり、義とは

他の不善を憎み、自分の内心の不善を恥ずる情が適切に現れるの謂(いい)

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P243) 中央公論社」

というように、少し難しい表現になりますが、仁や義のような徳目も、誠に根差した本能的な渇望であると解釈されました。朱子学においては、欲望は人間本来の性質の発露を阻害するもの、排除すべき対象であるとされていますが、山鹿素行は人の欲望を善悪で捉えずに「適切に現れること」によって、それは天地の法則に適う社会的秩序であるところの「誠」になり得るとしました。

そして、山鹿素行はその誠を求める学問の在り方について、「実践を伴わない知識は役に立たない」と折に触れて講じておられます。詳細は後ほど紹介いたしますが、一つ例を挙げますと、

(前略)古今の書をすべて暗記してそれをりっぱな仕事であると誇ったり、または、詩・文章をもてあそび、それらを作ることを学問だとする者があるが、それらは大丈夫の学とはいえない。それは一介のもの知りにすぎず、青くさい書生となって弁舌を用い、あるいは筆耕することで生活の資を得、それによって人に隷従するというのは士たる者の本意ではないのだ。

それでは学問とは何か。それは古えの聖人の道を根本とし、賢人・君子の事蹟をたすけとしつつ、時代の変化、および人間や事物に関する理(法則)をわきまえ、さらに見聞を広くし、才知をみがく、これが学問というものである。ところが、自分の知をひけらかすために書物を利用し、書物に書かれたところを暗読し、詩・文章をもてあそんでは当世の人やものごとをばかにし、みずからを高しとして人をあざける者が後世になって出てきたが、このようなものを大丈夫の学問というわけにはいかないではないか。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P245-246) 中央公論社」

このように、山鹿素行の思想は学者のそれというよりも、実践を重んじて口先だけの言動を嫌った武士の生き方に合致するものです。山鹿素行が提唱した武士道論は「士道」と呼ばれ、戦国の気風を受け継いだ従来の武士道とは区別されていますが、その思想の根底には、戦国乱世の武士道と同じく、矜持や生き方への試行錯誤が躍動しているのです。

では次に、山鹿素行に関する書物の中から武士道について触れたものを紹介し、具体的にどのような思想であったのかを探ってみます。

[武教小学]

成立:1656年(明暦2年)
著者:門人 藤忠之(布施源兵衛)校正、藤可慶(千田治太夫)句読

武教小学は、山鹿素行が三十五歳の頃に門人たちの手によって編集された講義録です。序文、夙起夜寐、燕居、言語応対、行住坐臥、衣食居、財宝器物、飲食色欲、放鷹狩猟、与受、子孫教戒の11項目によって構成されています。比較的短い内容ですが、武士が修めるべき行動規範が凝縮されており、江戸時代を通じ、武士を教育するための教科書としてもっとも広く読まれたといわれています。

儒学的な普遍的法則や本質にはあまり触れず、具体的にどのように行動すれば良いのかという方法論がまとめられており、深く儒学に通じていない人であっても分かりやすく、それだけに幅広い層に普及したのでしょう。それこそ、幼少期からの教育にも使えるほど、かみ砕いて記されています。

特に門人によって記された序文においては、山鹿素行の士道が端的に言い表われており、

農・工・商は天下の三つの宝である。士が農・工・商の働きもないのに、これら三民の長としていられるのはなぜか。それはほかでもない、みずからの身を修め心を正しくし、すすんでは国を治め天下を平和に保つからである。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P105) 中央公論社」

これは冒頭の一節ですが、まさにこれが山鹿素行の士道の基本的な考え方であり、武士の仕事は心身を正しく修める努力をして、その徳によって天下を平和に保つことであると述べられています。

次いで、

士が君主から俸禄をもらいながら、三民の長としてふさわしい外形・行為・知識を保たない時には、彼らは天の賊民であり、もっとも恥ずべきものとなるのだ。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P106) 中央公論社」

と、三民(武士以外の人々)よりも立場が上であることに胡坐をかいて正しく生きる努力をしない武士は、人間の中でもっとも恥ずべき存在になるとまで言い切っています。

このように、常に自身を顧みて欲望を律し、心身を向上させるべく励むのが儒学影響下の士道の特徴と言えます。海外のノブレス・オブリージュの思想にも似ていますが、山鹿素行の儒学的解釈においては、天地自然の法則(理)を実現するために社会構成に充当されたのが士・農・工・商の四つの立場であり、それぞれが己の役割を全うすることで社会は円滑になり平和が保たれる、といった捉え方になります。

それゆえに、武士も自分の役割を自覚し、それに邁進しなければ賊民であると言われたのです。特権階級的な立場に甘えて遊んで暮らしていたら、その人は賊民であって他者からの蔑みを免れないということです。自明ではありますが、士・農・工・商は差別主義ではありません。三民は国の本、宝であり、士だけでは社会は成り立ちません。そこにあるのは役割分担です。
このような考え方があったればこそ、武士は身分の優位性に溺れることなく、自身を厳しく修めることが出来たのです。

時代は下って、山鹿流師範家の吉田松陰は、「武教全書講録(武教小学についての講義をまとめた講義録)」において、

このまえがきの意味についてよく理解しなさい。これで武士としてふみ行うべき道も、我が国の国体、つまり国としての在り方も、そのあらましが得られるはずである。

引用元:川口雅昭(2017).「吉田松陰 武教全書講録(P106) K&Kプレス」

と、序文の有用性を説かれています。

他、武教小学の中には、武士として生まれた者がいかに在るべきかという行動論が列挙されていますが、山鹿素行の士道に関する思想がよく現れている部分をいくつか紹介させていただきます。

ことばや相手に対するうけこたえには、その人の心がけがこめられているものだ。たわむれにいったことばにも、その人が心のなかにもっている思いがこめられているというが、それはつまりこのことをいったものである。すべて士のことばが正しくない時には、その行いもかならずよくないのだ。よわよわしいことば、卑しい言葉はけっして用いてはならぬ。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P111) 中央公論社」

武士に二言はない、という格言に代表されるように、武士が言葉を大切にしてきたのは疑いようのない事実であります。その理由は様々ですが、この一節では、言葉は心(内面)の現れであって、言葉が正しくないということは心も正しくない、ということが述べられています(武略で仮の自分を演じること等はあったでしょうが、それはまた別の話です)。

また逆に、普段使う言葉が心にも影響を及ぼすため、弱々しい言葉や下品な言葉を使ってはいけないということも述べられておりますが、これはまさに真理ではないでしょうか。

衣・食と住居には分がある。この三つのものが、その人の身分以上であれば、その収入にくらべて費用が多くかかりすぎ、その財産は使い果たされてしまい、武備のための力がなくなってしまう。また逆に三つのものがその身分以下である場合には、その心はけちけちしたものとなるから、これもまた正しいしかたとはいえない。そのように極端になることなく、その分に合った程度にするのが士としてのしかたである。士の衣服はそれぞれの分によってその限度があるが、要はただ武備に適当しているか否かにだけあるのである。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P113) 中央公論社」

衣食住の充実は現代人にとっても重要なことですが、贅沢をせず、あるいは倹約しすぎず、身の丈に合った生活をすることが大切であると述べられています。「戦闘者たる武士であるからには、武備を整えることを生活の中心に据えるべきで、贅沢をして有事の備えをしないのは論外である」というのが主な理由であり、自分の職分(役割)を全うすることを課題とする山鹿素行の姿勢がよく現れています。

元来、財宝とは乏しい者に与え、貧しい者を救い、不足を補い、また賢人を招き、士をあつめるために用いるところのものである。

(中略)

自分の家のことばかりを思っていれば、結局、義にしたがわず、死すべき時にも死なず、そのため、人からはそしられて、自分のみならず祖先までが恥をうけることになるのである。これでは人の顔をしているが、その心は獣同然であって、こうなってしまえば、もはや何の楽しみもありえない。また、金銀・財宝・器物をありあまるほどにもちながらも国を失いまたは家を亡ぼした者、自分の身は存在の意味がなくなるというのに、そのことを犠牲にしても財宝をあつめた者は昔から今にいたるまで数えられないぐらいに多いのである。どうして他人のことだと思っていいかげんにできることであろうか。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P115) 中央公論社」

財産は、世のため人のために使うものであって、己の私利私欲を満たすためのものではないということが述べられています。財産に執着すれば、仁義といった武士の本懐を守れず、先祖にも申し訳が立たない。それでは人間ではなく単なる獣であるとまで喝破されています。
昨今の、欲望を全肯定するかのような世相を見たら、山鹿素行はどのように思われるでしょうか。

子孫に対するいつくしみ<恩情>は自然のものであって、血統がつづいているところにあるものである。そしてこれ以上密接な人間関係というものはありえない。自分が死んだ時、後をつぐ子がぐうたら者であれば、その家は断絶し、その身は滅びる。だから、その子に対しては、恩愛の情が深いからといってきびしく教え戒めないことがあってよかろうか。
士は大丈夫である時、はじめて勇といわれる。愛恵の情が切実であるからといって、信と勇をもってきびしく戒められない人は志士・仁人(道に志ある士・徳のある人)ではないのだ。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P118) 中央公論社」

自分の子どもに対して甘くなりがちであるというのは、今も昔も同じです。ですが、子が可愛いからといって、悪事を咎めずやりたいままにさせていては、後々良くないことになります。子ども自身のためになりませんし、世の中にも不義を働くかもしれません。
本当に立派な人は、子を信頼し、また勇気を出して子どもを教え導きます。甘やかすだけの親は、志も徳もないということです。
これは、現代人にとっても、ごく普通に理解できるのではないでしょうか。

一般に、女子に対する教戒には、特にまちがいのないように気をつけなければならない。しばしば、教戒のしかたとして、女子には柔弱であれと教える者があるが、それは大きなあやまりである。士の妻たる者は、士はいつも役所につとめていて家内のことをつかさどらないのであるから、夫にかわって家業を管理しなくてはならないのである。どうして柔弱であってよいということがあるだろうか。いったいに、男は家内のことをいわず、女は外のことに口出しをしないのであり、住居に内と外との区別をつけているのである。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P120-121) 中央公論社」

かつての日本において、女性蔑視や不平等が蔓延していたと考える向きもあるようです。
が、少なくとも山鹿素行が提唱する武士道(士道)においては、女性は男性と対等であり、女性を弱者と決めつけて一方的に虐げるようなことはあってはならないとされました。

女性と男性では立場が違いますし、両者が同じ教育や待遇を受けることはないわけですが、それは差別ではなく区別であり、役割分担です。女性には女性の性質、男性には男性の性質があり、それぞれ得意分野があります。

男性が外に出て働くのなら、家のことに手が回りません。だから、家内のことは女性に任せる。その役割分担があるからこそ家は治まり、ひいては国の安寧につながるということです。男女が同じになる必要はないし、そもそも不可能です。

以上のように、武教小学に記されている内容は実に具体的です。抽象的な表現は少なく、すぐにでも使える実用的な内容になっており、机上の空論を嫌って実践を重んじた山鹿素行の配慮が感じられます。

では次に、この武教小学の根底に流れる思想である「士道」が収められた「山鹿語類」を見ていきましょう。

[山鹿語類]

成立:1665年(寛文5年)
著者:山鹿素行門人(講義録)

山鹿語類は、先の武教小学と同じく、山鹿素行の門人たちのよって編集された講義録です。成立は山鹿素行が四十四歳の頃で、朱子学を批判したとして播磨赤穂に流される原因になった思想も収録されています(直接問題になったのは「聖教要録」という書物ですが、これは、山鹿語類の「聖学」を抜粋したものです)。

君道、臣道、父子道、三倫談、士道、士談、聖学の項目によって構成され、全四十五巻から成る長大な書物です。全編を通して儒学に対する考えや姿勢が講じられており、山鹿素行の思想の集大成ともいえる内容となっています。そして、この中の「士道」あるいは「士談」の中で武士の存在意義やあるべき姿が論じられており、道を求める武士たちに多く読まれました。

士道篇の冒頭では、

世界は陰陽の二つの気の妙合によって万物が生まれ発展している。人間はその中でも最高の存在であり、ある者は田畑を耕して食糧を供給し、ある者は器物を作り、ある者は物質を売買して、それぞれが自らの役割を果たしながら、世界に必要なものを充足させ運用している(みなが遊んで暮らしたり、同じことをしていては世界は回らない)。だから、農・工・商という役割分担が行われたのは必然なのである。

といった内容から始まっており、まず儒学的な解釈で人間を定義し、人間が世の中を運用するために、農・工・商のような職業が生じたとしています。

次いで、

士は耕すことなしに食し、なにものも作ることなしに用い、商売もしないのに暮らしていける、それはなぜであろうか。

(中略)

士には職分というものがなくてはならない。職分がなくて食っていけるというのでは、それは遊民というものだ。だから遊民とならないために、ひたすら心をこらし、自分の身についてよく考えてみなければならない。

(中略)

もしも努力をしないで一生を終わる者は、天の賊民といわねばならない。ここにいたって、士にも職業がないはずはないとみずからをかえりみ、士の職分を明らかにしようとつとめて、はじめて、士の職業がはっきりするのである。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P225-226) 中央公論社」

農工商に携わる人は、人間が生きるために必要な根幹の部分を担って、それぞれの役割を果たすために働いていますが、武士はその人たちが努力をして生み出したものを、働きもせずに俸禄として得ています。極端なことを言えば、何もせずに毎日遊んで暮らしても生きていける立場です。

ですが、士という存在も陰陽の二気から生まれた世界の一部ですから、農工商の人たちのように、必ず何かの役割があるはずです。そうでなければ、士は盗人と同等になってしまいます。だから、士も自分たちの役割について考え、明らかにしなくてはならないと、士という存在への問題提起から始まっています。

そして、それに対する回答として、

およそ士の職というものは、主人を得て奉公の忠をつくし、同僚に交わって信を厚くし、独(ひと)りをつつしんで義をもっぱらとするにある。そして、どうしても自分の身から離れないものとして、父子・兄弟・夫婦の間の交わりがある。

これもまた、すべての人が持たなければならない人間関係であるけれども、農・工・商はその職業にいそがしくて、いつもその道をつくすというわけにいかない。

士はこれらの業をさしおいて、もっぱらこの道につとめ、農・工・商の三民が、人のなすべきことをすこしでもみだすならば、それをすみやかに罰し、それによって天の道が正しく行われる備えをなすものである。だから士には、文武の徳知がなければならない。

それは、外形としては剣術・弓術・馬術などを十分にこなすことであり、内面においては、君臣・朋友・父子・兄弟・夫婦の道をつとめることであって、このように文道がその内心において充実し、その外形においては武備がととのうようになれば、三民はおのずから士を師とするようになり、士を尊び、その教えにしたがい、ものごとの順序を知ることができるようになるのである。

こうしてはじめて、士の道は成り立ち、自分では働かず、衣食住が足りていることにも、心の負い目を感じなくてすむのであり、また、主君の恩、父母の恵みにもいくらかは報いることができるのである。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P226) 中央公論社」

という理由を挙げています。

長い引用になったので、私なりに意訳してみます。

武士の仕事は、主人に忠をつくして仕え、仲間との信頼を深め、人が見ていないところでも悪事を働かず、常に義を貫くことである。加えて、父子・兄弟・夫婦の関係を正しくし、人格の向上に努めなくてはならない。

本来、これらは武士だけではなく、農工商の三民を含む人間全てに当てはまることだが、毎日忙しく働いている人は、人の道(儒学)を学ぶ時間も取れないため、常に道徳的に行動し、正しい言動を維持するのは難しい。時には失敗して、不道徳なことをしてしまうかもしれない。

そのような時は、為政者である武士が諫め、時には取り締まり、社会が正しく治まるようにしなくてはならない。そのために、武士は文武に深く通じて、人間としての正しい在り方を追求し、平和を維持するための武力を備えておく必要がある。三民の上に立つ武士は、権力を持つがゆえに、自らを正しくするための努力を怠ってはならない。

武の分野として剣術などの武術を修め、文の分野として人間関係を正しくし、心を適正に保つ努力をする。そのように心がけておればこそ、武士は民衆から尊敬され、考えた政策や制度も受け入れてもらえる。結果、民衆は武士を手本にして人のあるべき姿を知ることにもつながる。

こうしてはじめて、武士は民衆からの租税で衣食住を賄う資格を得て、後ろめたさを感じなくて済む。そして、数多ある御恩にもいくらかは報いることができるのである。

この部分を見れば、先に紹介した武教小学の序文にある「武士が働きもしないのに三民の長でいられるのは、みずからの身を修め心を正しくし、すすんでは国を治め天下を平和に保つからである」という一節の意味を、より詳しく知ることが出来るのではないでしょうか。

山鹿素行は武士の職分を「民衆の規範になること」つまり「人格の向上による道徳性の確立」と定義して、それによって民衆の信頼を得て、世の中が平和になることを理想としたのです。
民衆からの租税で生活するという立場にあった武士ですが、それに甘んじて怠惰に暮らしていては民衆の反発を買うことは免れません。常に努力して人々の見本になるからこそ、民衆は武士を慕い政策にも従ってくれるわけです。また、普段は仕事に忙しい民衆も、武士の言動を手本にすることで、人の道を知ることが出来ます。いくら武術に長けていても、道徳的な自己修養を行わないのであれば、それは武士として未熟であると断じたのです。

山鹿語類が成立した1665年は4代将軍の徳川家綱の時代で、武断政治から文治政治への転換期でした。まだまだ戦国乱世の名残があり、戦場働きを失った武士は、自分たちの存在意義を模索していました。

その中で提唱された山鹿素行の士道論は、迷いの渦中にあった武士たちに一つの筋道を提供しました。「これこそ武士の新しい生き方である!」と賛同した人も少なくなかったことでしょう。もちろん、古風な武士道を支持してこの思想を受け入れない者もいたでしょうが、少なくとも、戦闘者であること以外に自分の存在価値を見出せなかった武士たちに、新しい選択肢を与えたのは偉業であったと思います。

実際に、士道論は江戸時代全体を通じて多くの武士から支持されました。幕末には吉田松陰、そしてその弟子たちに伝えられ、時代を揺り動かす原動力になりました。また、現代の日本人が思い描く、道徳的修養を軸としたいわゆる『武士道』とも近い印象を受けますし、それだけ影響力の強い思想であったのだと思います。

ですが、ここまで来ると、戦闘者の思想というよりは、ほとんど道徳的な修身論であると感じる人もおられると思います。山鹿素行は儒学者であると同時に兵学者でもありましたから、武を軽視することなど有り得ないのですが、山鹿語類においては文の側面を色濃く感じられるのも確かです。

ここに自分の職業は武のつとめであるといって、昼も夜も、また暑さ寒さをもかまわず、朝早くから夜遅くまで、すこしの暇をも惜しんで武義の修練を怠らぬ者があるとすれば、その職に精励するそのこと自体はよいのだが、それでは士としての道に対する志がないということであるから、そのしていることは、単に身を労するというだけのことで、そこには、心をゆったりとのびやかに万物の上におよぼすことには欠けているといわねばならない。ただ小さく限られた部分において成功したことに安んじて、それだけで一生を送るのがどうして大丈夫としての心ではありえようか。

そこで孔子の教えでは、道に志すのを重要なこととしたのであった。道に志すところがなければ、目先の利益に満足して、人としてのあるべき道の全体をわきまえぬことになる。また、たとえ目先の利益であっても、それを道全体から考えて得るというのでないと、結局は社会全体にとっては害となってしまうのである。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P265-266) 中央公論社」

この一節では、例え武を熱心に修練していても、道(世の中の原理原則、道理)を知らなければあまり意味がないとさえ述べられています。戦国乱世の頃は、武士はとにかく戦闘に長けていることが第一でしたから、同じ武士の思想とは思えないほどの変化です。武の大切さは認めながらも、武のみで身を立てようとする姿勢を明確に否定し、少なくとも、平和な時代における武士は、武術以外にやるべきことがあるという論調です。

では、なぜここまで、武に執着する武士を否定したのでしょうか。山鹿素行が考える武士の理想像が分かる、次のような問答が記録されています。

「士の達人ともいうべき人は誰でしょうか」とある人が質問したのに対して、先生がいわれた――君主としては尭・舜・禹・文・武であり、臣としては皋陶(こうよう)・益稷(えきしょく)・伊尹(いいん)・呂望(りょぼう)・周公・孔子である。これらの人はそれぞれ士の道をきわめている。

これらの人は聖人、または聖人に近い人なのだから、士道は聖人をもって本とするということができる。そして士道についての拠るべき書は、「六経」なのだ。しかるにわが国の学者はこのことを知らず、士道の、ほかに儒道というものがあるとして説をたてているが、これは大変なまちがいである。そして別に儒の法なるものを論じ、儒者の風をする者があるが、当然の結果として、その行いはことごとく誤っているのである。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P267) 中央公論社」

このように、古代中国の伝説的君主や政治家などを挙げて、士(武士)の達人であると定義しています。孔子は言うまでもなく儒学の始祖ですが、理想的な武士として「為政者、あるいは指導者の側」の人物を挙げているところに、山鹿素行の士道の特徴がよく現れています。
士道が目指すべのは、単なる一兵卒の戦闘上手ではなく、武と文を両立させて上手に社会を運用していく能力であり、その最終到達点が、これらの「聖人」です。
「道徳性を確立して民衆の規範になる」という士の職分も、本を正せば、中国古代の「聖人」の姿に倣っていることが分かります。

ちなみにこの場合の聖人とは、「人間として智慧や道徳性が極限まで達し、天地の理を完全に体現する人」と考えても差し支えないと思います。かつての聖人は、武力と徳を両立して国を治めました。そのような聖人になれないまでも、何とか近づくようにするのが武士としての勤めであるとしたのです。無論、武のみを追求していたのでは、聖人に近づくことは出来ません。

士道(武士道)=聖人の道

というのが、山鹿素行の根本で、山鹿語類における一貫したテーマになっています。

先に、山鹿素行の思想に対して「戦闘者の思想というよりは、ほとんど道徳的な修身論であると感じる」と言いましたが、山鹿語類が成立した当時は、武士の間でもまだまだ戦闘者の気風が強く、何も言わなくても武の重要性は世に知れ渡っていました。そのため、武についてはわざわざ触れる必要がなかったのだと思われます。武を強調するよりも、文武の両立こそ急務であると知らしめることが、士道の目的だったのだと私は考えています。

そして、理想の武士=聖人に近づくための方法として、「格物・究理」と「学問」が肝要であるとしています。

格物と究理は、「格物究理」として儒学で重用されている用語で、一般的には格物と究理をセットで扱います。大体は「対象となる物事をよく観察し、考えを巡らし、道理(法則)を明らかにする」といった意味になります。格物究理については、学派によって様々な解釈が論議されてきたのですが、山鹿素行は、聖学篇において朱子学を始めとした孔子以降の格物究理の解釈を批判しており、宇宙の本質のような形而上的な一つの理を求めるのではなく、あくまでも現実に即した形而下の範囲で個々の条理を求めることが本当である、といった独自の説を唱えています。

ただ、この話題に触れると複雑になってしまいますので、おおよそ「主観的な知識や思い込みで断定せず、時と場合、様々な事情を考慮して、目前の事象の道理を徹底的に追及する」という感じで良いと思います。とにかく、軽はずみに判断せず、よくよく調べて答えを出しましょう、ということです。そして、格物・究理して考えを巡らす際の手がかりとなるのが、かつての聖人たちの言動です。

山鹿語類において、この格物・究理という言葉は頻繁に登場し、その姿勢がいかに重要であったかをうかがい知ることが出来ます。

先生がいわれた――一般的にいって、「物」はまずその外形について考え、その物が存在している理由をはっきりさせ、それがいかなる作用をなすかをきわめるならば、その物の当然あるべきあり方は、疑問の余地なく明らかとなるであろう。それを「格物」というのである。だから、格物によってはじめて透徹した真の知が明らかとなる。これは明徳が物に応じてあらわれることである。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P418) 中央公論社」

物というのは、普通に物体のことを表すこともありますが、君臣、親子、男女、などの人間関係についても該当します。そして、同じ人間関係でも、人それぞれ環境や事情が違うのだから、紋切り型に別の事例を当てはめるのではなく、目の前の一つ一つの事象に対して事細かに分析する、それによって本当の知識が得られるということです。
山鹿素行は、過去の事例や書物に書かれてることをそのまま現在の状況に当てはめるような「格物のない判断」を嫌い、事あるごとに戒めています。

先生がいわれた――大丈夫の大丈夫たるべきことは、要するに義を守り義を養うということである。だが、義ということについてくわしくその事柄を究明しておかないならば、自分では義であると思っていても、じつはほんの小さな軽々しい義をまさしく義であると考えて、至大至高の義を見失うということにもなりかねないのである。そこで聖門の学の要は格物して知をきわめることにあるというのである。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P301) 中央公論社」

この一節では、武士に必須の徳目である義についても、格物しなければ見誤るということが述べられています。義にも大小高低があり、目の前の重要度の低い義を重んじたばかりに、それ以上に大切な最重要の義を見失うこともある、というような例です。先走るのではなく、よくよく考えて行動しなければいけないというのが、士道における一貫した考え方です。

戦国乱世の武士道は、甲陽軍鑑の脇差心に代表されるように、どちらかというと瞬時の判断で動くことが良しとされていました。が、山鹿素行は、戦国のそういった気風よりも、聖人の教えを基盤とした格物究理による慎重な判断の方がより平和な時代に合っており、新しい武士の生き方(士道)に相応しいと考えていたのです。

これは、かつての武士道とは真逆であり、相容れない部分ともいえます。士道と戦国武士道の違いを理解するための、分かりやすい事例かもしれません。

なお、これに付随するものとして、次のような一節もあります。

先生がいわれた――わが国の風俗が勇武であり、淳朴であることは確かであるが、その一方では気質がせっかちで、事物をこまかに究理することなく、すぐにその効果を求めてことを行うという悪いくせがある。だからその風俗は、根本を追求して物事の深みから究明するというふうではなく、あるいは、究理した場合、根本的なところで違っているところがあってもそれを正さず、末端の小事ばかりを問題にすることが多い。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P164-165) 中央公論社」

従来の武士の在り方を認めながらも、少し苦言を呈しているようにみえます。戦国乱世の武士たちは、戦場での働きを中心的課題としていたため、目の前の物事に対して慎重に深く考えるという姿勢は浸透していませんでした。一部、甲斐武田家を代表とする、分別や学問を重視していた武士も存在してはいましたが、戦場ではのんびりと格物している余裕もなく、やはり瞬時の判断力が賞賛の対象だったのです。

ですが、泰平の時代において、その気風は弊害も多く、考え方を改めなければいけません。今までのような戦闘主体の気質ではいけないという、山鹿素行の主張が色濃く表れています。

そして、格物・究理と並行して「学問」についてもよく論じられています。
学問という言葉を聞いて、あなたはどのような印象を持たれるでしょうか。多くの人は、本を読んだり、勉強したりといった、いわゆる机上の勉学を思い浮かべられたのではないでしょうか。

ですが、山鹿素行が定義する学問は、それらとは少し違います。

学問とは今日(こんにち)の日常生活の上で出会うもろもろのことについてつねに考えをこらし、そのおのおのについて究理することである。そして学問して究理しにくいことを古人の言行と比較し、聖人・賢人のかつてしたことを頼りとして、その理を究めるために本を読む、それが読書なのだ。そこで、「行なってなお余力があれば、書物を学ぶべきだ」(『論語』学而篇)というのである。重ねていうが、学とは一つ一つについて究理し、人にもたずね、また、みずから考えをこらして、それぞれの最善の道を明らかにすることであって、かならずしも読書ばかりをいうのではない。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P165-166) 中央公論社」

このように、日常生活で試行錯誤し、究理することが学問であると仰っています。理想の武士=聖人に近づくための方法として格物・究理があり、その実践こそが学問であると定義されているのですが、単に本を読んで記憶したり、知識を得ることが学問ではないということですね。
武士は常に実践主義であるべきで、日常の課題と学問を切り離してはいけない。机上の空論を戒めるというのも、山鹿素行の思想の特徴です。

あといくつか例を挙げてみます。

だいたい、書物というものは、昔のことが書かれているだけのもので、そこに書かれていることが確実であるというわけではない。
ところが、その根本のところが理解できないために、書物に書かれていることがすなわち道であるなどと誤解するものだから、その考えはすべてまちがいとなり、結局、聖学の本当の理というものを得ることができないのである。

(中略)

学問に余力があれば、そこで読書して究理すべきなので、学問、すなわち読書などと思ってはならない。学問とは読書なりとするものだから、字がうまいとか、詩・文章を作る才が単に著述・作文の役に立つだけとなって、それがその人の人品や政治上の仕事によい影響を及ぼしている場合が少ないのは残念なことである。要は、周公・孔子の学んだこと、教えたことを手本として学問すべきであり、後世のつまらぬ儒者のいうことを師としてはならないということである。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P167-168) 中央公論社」

先生がいわれた――読書とは、青年に余力がある場合にするところの学問の方法である。日常の生活におけるもろもろの事物を処理していくという、もっとも切実な務めを二の次にして、読書の過程をたてるというのは、学問とはすなわち読書であるとすることである、近ごろの学者のまちがいはもっぱらここにあるのだ。

本来、学問と現実とは相即不離であらねばならぬのに、このようなまちがいによって、それが別々のものとなってしまったのである。古の聖人が設けた学校では、つねに読書するというようなことは、けっして行なわれなかった。

引用元:田原嗣郎(1998).「山鹿素行(P427-428) 中央公論社」

なかなか厳しい言葉が並んでいますが、当時、儒学者を始めとする知識人の間では、知識量や記憶力を偏重して他人を見下すような風潮があり、その傲慢さが目立ったのでしょう。それに対する戒めとして、繰り返し門弟に言い聞かせていたようです。
武士の学問は、「身を修め心を正しくし、すすんでは国を治め天下を平和に保つ」という武士の職分を全うするための手段であり、四書五経を暗記して、知識をひけらかすことではないのです。

以上、山鹿語類について紹介して参りましたが、武教小学とは違って、より儒学的な内容であることが分かります。士道は「山鹿素行が打ち立てた儒学の一派」と表現されてもおかしくないほど、儒学に寄っています。というより、士道は山鹿素行が打ち立てた儒学(後でいうところの古学)の中に含まれるものですから、これが儒学の範疇なのか、独立した武士の思想なのか、境界は曖昧です。

江戸時代において、山鹿素行は儒学者としてよりも兵学者としての名声の方が高く、いわば戦闘のプロ、武人でした。武に携わる人が、儒学を基盤とした文武両道の思想を打ち立て、多くの武士がそれを受け入れたというのが特筆すべき点です。武と文が不可分となり、武を学ぶ中で自然と文を修め、文を学ぶ中で自然と武を修めるという、時代に即した新たな武士の道を提示したのが、山鹿素行の「士道」なのです。

現代日本に残された、士道論の残滓

今回は、儒学の影響を受けた武士道の代表格ともいえる、山鹿素行の思想を紹介しました。

山鹿素行が提示した「武士の在るべき姿」は、戦国乱世までの武士道とは大きく異なり、儒学思想を基盤とした人間形成の意味合いが強いものでした。
武士は三民によって生かされる存在であり、それゆえに、自分を厳しく律して立派な人間であらねばならない。その練り上げた人格によって国を治め、世界を平和に保つことが武士に課せられた職分であるという考え方が、その思想の根幹にあります。

そして、その人格の理想型が「聖人」です。格物・究理によって物事の理を追求し、足りない部分を、かつての聖人や賢人が残した言葉によって補完しながら聖人を目指す。その絶え間ない自己修養が、即ち泰平の世の武士の道「士道」であると説かれたのです。

戦国乱世では、武士が腰に帯びた刀を振るう理由は、己の意地や家の利益にありました。が、儒学的な教養によって個人の損得から離れた泰平の世の武士は、義や仁といった徳目に言動の規準を置くことになります。ゆえに武士の刀は、私的な自己実現を達成するための手段から、世界を平和へ導く公的な大義の器という精神性を帯びるようになったのです。

現代の日本でも、政治家や官僚などの為政者は人格も立派であるべきだ、という感覚を持っている人は少なくありません。いくら政治手腕に優れていても、私利私欲を貪る輩には自然と嫌悪感を抱きます。その理由が、「みずからの身を修め心を正しくし、すすんでは国を治め天下を平和に保つ」という士道論の延長線上にあるような気がしています。

では次回は、儒学の影響を受けた武士道論について、もう少し紹介いたします。
山鹿素行が提唱した士道は文武両道の代表格ともいえますが、実は、江戸時代において、文と武の合一を目指した儒者や武士は少なくありませんでした。

武勇の時代から文武の時代へ転換する原動力となった儒学武士道の思想を、現代に伝わる書物から探っていきましょう。

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