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戦国乱世の武士の在り方を記した『甲陽軍鑑』が、武士道の原型を伝えている

2016/05/27

さて、前回は、明治時代に新渡戸稲造によって著された『武士道(Bushido,Soul of Japan)』が、現代日本人の武士道観に多大な影響を与えているということをお話しました。

⇒【前回:新渡戸稲造の著書『武士道』は、武士の行動規範を下地にした、新興の道徳思想である】

「武士道」という言葉を耳にしたとき、この書物の内容を思い浮かべる方が多いわけですが、武士道は、彼が提唱した道徳思想に収まるものではありません。
むしろ、その思想は、当時流布していた武士道イメージに、キリスト教的な道徳観を加味した、独自の新興思想です。

では、本来の武士道とは何なのでしょうか。新渡戸稲造が提唱した武士道的道徳以外に、武士道に迫る手がかりはあるのでしょうか。

実は、この新渡戸稲造の武士道とは違った、いくつかの武士道の流れがあり(というより、新渡戸武士道の方が支流なのですが)、そのうちの一つが、今回紹介する「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」という書物によって現代まで伝えられているのです。

戦国武将・武田信玄公に代表される「武田家」にまつわる歴史や軍学、風習などによって構成される甲陽軍鑑には、その時代の武士たちが、どのように生き、どのように武士たる己を貫いたのかが記されています。

この書物は、江戸時代の武士たちにも熟読され、自身を鼓舞し律するために用いられていました。甲陽軍鑑に描かれる武士の姿を理想像としながら、平和な世相における武士の在り方を模索し、武士道という世界に誇る精神文化を練り上げていったのであります。よって、現代で武士道と呼ばれる思想なり考え方で、この書物に影響を受けていないものは皆無です。無論、何らかの形で、新渡戸稲造も影響を受けています(そもそも「武士道」という語句が出現したのは、この甲陽軍鑑が最初だといわれています)。

甲陽軍鑑に描かれる武士は、武士は武士でも、泰平の世に生きた武士ではなく、合戦が常だった戦国時代の武士です。道徳や倫理が先にあるのではなく、あくまでも「戦闘者」としての職分が基盤にあるため、泰平の世に生きる我々が見た際に、過激と思われる表現も少なくありません。

何せ、実際に太刀を帯びて命のやり取りをしていた戦国時代の実相を記しているわけですから、現代に合わないこともありましょう。ですが、それを差し引いてでも、この書物に記された含蓄ある数多くの教訓は、人生の標として学んでおく価値があります。特に、組織のリーダーや、それに追随する立場の人は、ぜひ一度、読んでみていただければと思います。

※画像については、国立国会図書館ウェブサイトより転載させていただいております。また、引用については、主に新人物往来社の「改訂 甲陽軍鑑(磯貝正義・服部奈治則校注)」を参考にさせていただきました。

甲陽軍鑑の構成と概要

甲陽軍鑑は、全二十巻構成で品第一~品五十九の章に分けられた「本編」と、上下巻の「末書」という構成になっています。内容としては、戦国時代を代表する武将・武田信玄公をはじめとする甲州武士の風習や心構えを記しており、家法、軍法、歴史などの伝承が記録されています。現代でもよく耳にする訓戒も多々含まれており、武田信玄公の言行録といった趣もあります。

先に、武士道を伝える書物、というような表現をしましたが、実際には、武田家の歴史を中心とした話題が列挙されているのみで、「武士道とはこういったものである」というような明確な記述はありません。ただ、登場人物の言動や文章の行間から、理想の武士の姿を読み取って自分なりに解釈していくことが出来るため、多くの武士に読み継がれたのでしょう。

江戸時代には、甲州流軍学の教科書として用いられていたこともあり、盛り込まれた話題は多岐にわたります。

成立については様々な意見があり、信憑性のない偽書であるという説が支持された時代もあったようですが、現在は、武田家の家臣・高坂弾正昌信(こうさかだんじょうまさのぶ)の口述や筆録を、大蔵彦十郎、春日惣次郎が書き継いで、江戸期に入って小幡景憲(おばたかげのり)が編纂したものであるという説が主流です。
ちなみに、小幡景憲は、江戸時代を代表する軍学者「山鹿素行」や、武道初心集を記した「大道寺友山」の師でもあります。

いずれにしても、甲陽軍鑑は、戦国乱世の時代の武士の姿が生き生きと描かれており、武士という存在について知るためには、絶好の書物と言えましょう。史料としての信憑性については、私は専門外なので分かりませんが、時代考証の点で多少の間違いがあったにしても、内容は本物です。死と隣り合わせの極限の状況で磨かれた武士の美学は、人間の精神の可能性と力強さに満ちています。

また、武士が戦闘に生きた時代の激しい生き方に触れることは、武士という存在を理解し、武士道成立の課程を知ることにつながります。逆に、この戦国乱世の武士を知らず、儒学に寄った江戸時代の武士道(士道)や、新渡戸稲造の道徳思想だけを学んでも、本質を逃してしまう可能性があります(無論、自己修養や道徳の大切さを否定しているわけではありません)。

戦国乱世で求められるものと、現代が求められるものには、やはり違いがありましょう。血生臭い戦場の作法など、現代においては無用の長物ですし、あってはならないものです。武術の技法や思想においても、戦国時代と現代とでは、大きく異なっております。
が、人間が持っている気高さ、尊厳、智慧というものは、時代が変わっても同じであり、常に求め続けられます。人間という存在に迫るとき、その本質は、時代によって左右されるものではありません。

それゆえに、甲陽軍鑑に記された武士の生き様は、現代においても輝きを失っていません。学ぶべき点が、たくさんあります。

では実際に、甲陽軍鑑には、どのような教訓や武士の生き様が記されているのでしょうか。
内容が膨大であるため、全てに触れることは出来ませんが、甲陽軍鑑から読み取れる「武士としての在り方」を、いくつかを抜粋して紹介させていただきます。

極限の覚悟「脇差心」が、争いを抑制して平和をつくる

甲陽軍鑑で描かれる戦国乱世の武士たちは、合戦になれば命を賭して戦い、死と隣り合わせの日々を送っていました。それゆえ、平時においても厳しく自己を律することが求められ、それが出来ない者は、戦場で討ち死にするか、粗相の末に切腹を命じられることになります。

武士は武士らしく。義を重んじ、腰が引けそうな状況に対しても苛烈に立ち向かい、人として恥じない生き方を全うすることが、何よりも大切とされていたのです。甲陽軍鑑には、そのような生きた武士たちを褒め称え、後世の武士も見倣うべしといった趣の言葉が散見されます。

それだけに、武士が規範とすべき生き方(武士道。甲陽軍鑑においては、弓箭の道、男子道、等と称される)に反する言動をとった者は、心ある武士からそしりを受け、時には厳しく処罰されたのです。
(ただし、この場合の武士とは、主として武田家の家臣や、その周辺に仕える上級武士のことで、一時的に戦場に駆り出される侍や下人といった「雑兵」とは区別して考える必要があります。)

甲陽軍鑑の品第四十七には、武士道から外れることを強く戒めた、とある逸話があります。

赤口関左衛門、寺川四郎右衛門口論の事

ある時、関東浪人の赤口関左衛門、上方浪人の寺川四郎右衛門が口論となった(その頃、寺川は四十盛り、赤口関は五十六、七歳)。

相手の雑言に対して寺川が席を立ち、赤口関の胸ぐらを掴み、後ろの壁に押し付けた。そのまま押し倒された赤口関は、起き上がろうとしたものの、制されたまま起き上がれない。

仰向けに寝たままの赤口関は両足で寺川の脇腹を蹴り飛ばす。寺川は思わず手が離れて後退し、打ち所が悪かったのか、顔色も青ざめて気を失ってしまった。

そこで仲間が仲裁に入り喧嘩を収めたのだが、この一件は評判になり、目付を通じてすぐに武田信玄公の御耳に入った。

信玄公は、その場にいた者たちを集めて双方の様子をお聞きになられたが、誰の口ぶりからも「両方とも、少しも脇差心(武士らしく、脇差を抜いて斬り合う気概)なし。他の連中の証言からも、その気配はなかった」とのことである。

そこで信玄公は、重臣の原美濃守と山本勘助に命じて、赤口関と寺川を尋問させた。

「侍であるのに、しばらく取っ組み合いになったままで、刀(脇差)を抜かなかったのは何故か?」

という質問に対し、赤口関と寺川は「刀を抜くつもりだった」と言いたかったのだろうが、相手が検使(事実を検視する役職)の原美濃と山本勘助である。作り言をいうこともできない。

続いて、典厩信繁(信玄公の弟)から、現場に居合わせた者たちに、

「どうして両人の行為を裁かなかったのか?」

という御言葉があり、みな恐縮しながらも、口を合わせて、

「赤口関、寺川両人の行為は、町人か、あるいは七、八歳の子どものごとく幼稚な行為だったので、大したことはないと判断し、裁くことはしなかった」

と申し上げた。

以上が、典厩信繁、原美濃、山本勘助の調べの全てであるが、この報告を受けた信玄公は、

「寺川、赤口関は、どちらもいい年齢の経験者なのに、男子道(おのここどう)を知るという意味では若輩なり」

と判断され、さらにこう続けられた。

「侍が侍に出会って、胸ぐらを掴むほどになったからには、すぐに脇差を抜いて斬り合うのは当然。そうせずに取っ組み合い程度にしていたのは、誰かが仲裁に入ってくれることを望んでいたのだ。

また、押し付けられていた方も、武士が胸に手をかけられたからには、その瞬間に脇差を抜くべきであろう。

これは口論などではない。一応は、手に手を取った勝負である。なのに、素手で手を合わせるくらいでは勝負(喧嘩)ともいえない。互いに近くに寄る程度で、脇差心どなかったのだ。そんなものは、子どもや町人の争いで、武士の勝負ではない。

そもそも、男が四十、五十歳になって、赤口関左衛門、寺川四郎右衛門という立派な名前を名乗る侍が、このような争い事を起こすようでは、他国に対して示しがつかない。武田家の大きな疵になる事だ」

そう言われて赤口関と寺川を召し捕らえ、耳と鼻を切り落として家臣たちに見せた後に追放の刑とした。武田家の名を疵つけた二人は、追放の途上、国境にて首を切り落とされた。

少々過激な表現もありますが、戦国乱世の武士の在り方を示す逸話として、甲陽軍鑑の中でも有名な一節です。良いか悪いかはさておいて、これが武士の実情でありました。

もちろん、単に殺し合いを推奨しているわけではありません。軽率な言動と、己の本分を忘れることを戒める一節でありましょう。また、ここまで徹底しておかなければ、戦闘を生業とする武士たちの社会で秩序を守れなかったという側面もあったのでしょう。

いずれにしろ、武士が争うということは、相応の覚悟が求められたのです。一度争いの意志を示したならば、刀を抜いて、どちらかが死ぬまで斬り合うのが「武士らしい」対応でした。そして、例え勝ったとしても、すぐに腹を切って己も死ぬか、喧嘩両成敗の法に基づいて厳しく処罰されたのです。

それゆえに、武士は容易に争いはしませんでした。何か気に障ることがあったとしても、限界まで我慢することが、武士の大切な素養でした。合戦(戦争)での武勇は名誉なことですが、日常生活における軽率な争いは、恥でしかなかったのです。

現代の武術にも、この精神は色濃く残っています。心ある武術者ならば、容易に争ったりはしません。武士の精神を受け継ぐ武術者の存在意義は、暴力の強さではないからです。

私の師匠である曽川和翁先生も、

「武士の争いは、徹底的にやるものだ。中途半端はない。そして、戦ったが最後、自分も相手も、人生を大きく狂わせることになる。勝っても負けても同じよ。徹底的にやるのだから、最終的には双方が不幸になる。

自分が斬られたら当然死ぬ。誇りと共に死ぬと言えば聞こえは良いが、自分が死んだら嫁や子の面倒は誰が見るんじゃ?
相手を斬ったら、己は元より、家族や親類が迷惑を被る。殺人者の家族がどうなるか知ってるか?

それを想えば、簡単に争う必要はあるまい。人生を棒に振り、周囲に迷惑をかけてまで戦う価値がある時など、人生に一度あるかないかだ。いいか、くれぐれも、戦いどころを間違えるなよ。

だが同時に、そこまで徹底した覚悟がなければ、本当に命の大切さや尊さは分からん。中庸の意味も分からん。それも事実よ。ゆえに、中途半端な者が一番厄介だ」

事あるごとに、このように仰っていました。

武士道における争いとは「徹底的にやる」もので、それを象徴しているのが、武士の魂たる刀です。やるとなったら、我が魂を帯びて徹底的にやるのが「脇差心(わきざしごころ)」です。人生を賭して斬り合う価値がないのであれば、刀は鞘に納めたまま喧嘩は避けるべきなのです。常に好戦的で、抜き身の刀のような者は、そもそも武士でありません。これは、現代も戦国乱世も同じであります。

先の逸話において、武田信玄公は、二人が斬り合わなかったことを非難したのではありません。戦いを本分とする武士が覚悟もなく軽率に喧嘩をし、刀を抜くきっかけを外して、武田家の名誉を傷つけた。覚悟がなければ、最初から我慢して、手など出さなければ良かったのです。それゆえに断罪し、家臣への見せしめとしたのでしょう。

また、脇差心を持っていれば、それが逆に抑止力となって争いが減るという事実も重要です。相手を斬れば(例えそれが言葉であったとしても)、自分も間違いなく斬られるわけで、この自覚さえあれば、人を傷つけることに敏感になります。弱いもの虐めや小競り合いも起こらない。自然と争うことを避けるようになるのです。

戦闘者の思想である戦国乱世の武士道であっても、突き詰めれば平和に近づくという好例です。これがもし、中途半端な争いごとが許され、喧嘩をしても裁かれなかったとしたら、国は弱肉強食の無法地帯と化し、武士は好戦的で利害に敏感なだけの「ならず者」へと転落してしまうことでしょう。

脇差心があったればこそ、武士は戦闘という行為に対する思索を深め、精神を結晶化し、武士道完成へと近づいたのです。時代は変わっても、武士道の根底には、この脇差心が横たわっています。

武田家においては、力を持つ武士には、相応の教養と人間性が求められた

武士の本分は戦闘であり、武力を高め、敵を討ち取ることこそ名誉であると、一貫して甲陽軍鑑は主張します。ですが一方で、武田家は学問(主として儒学、中国古典)に触れることも推奨していました。

甲陽軍鑑の最初の章にあたる品第一には、以下のような記述があります。

天地の間、万物あり、万物の中に霊長あり。名づけて此を人倫(じんりん)と曰ふ。人倫司業あり。五常なり。六芸なり。習はずんばあるべからず。

(中略)

学は啻(ただ)身を潤すのみにあらず、国家を興隆し、子孫を栄茂するの本なり。本立つて道なる則(ときん)ば、乾坤を掌握に運(めぐら)し、古今を胸中に通ず。亦(また)道ならざらんや。(下略)

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(上)(P56)」 新人物往来社

少し分かりにくいので、要約しますと、

人には、人のなすべき仕事がある。それが儒学で言うところの五常(仁、義、礼、智、信)であり、六芸(礼・楽・射・馬術・書・数)である。ゆえに、習わないわけにはいかない。

学問は、自身に利益をもたらすだけではない。国を栄えさせて、子孫繁栄の基本となる。天地の理を知り、古今の歴史を知ることもできる。これが真の道でないわけがない。

こんなところでしょうか。

戦闘の訓練については、武士の本分だから奨励するのは当然ですが、戦場では役に立たないとも思える学問を、これほどまでに重視していたのは驚きです。現代でも読み継がれてる、儒学の四書(大学・中庸・論語・孟子)についても、武田家の武士たちは熱心に学んでいたのでしょう(ただし、このように学問を重視する姿勢は、必ずしも一般的ではなかったようです)。

重要なのは「何のために学問を修めたのか?」という点です。もちろん、人や天地の特性を把握して、国を上手く治めるという実利の面も大きかったはずです。ですがそれ以外にも、人間として、何が正しくて、何が正しくないのか。どのような生き方が、この世の理に適っているのか。そんなことを模索していたのかもしれません。

戦国乱世の武士は、合戦に次ぐ合戦で、死を身近に感じる緊張感を強いられてきました。自分が死ぬことは元より、戦場では敵の首を求めて奔走するわけで、そのような行為に対する本質的な疑念(罪悪感や抵抗感)は、例え戦国乱世といえど、常に武士の心で燻っていたように感じます。名誉という一言ではとても片づけられないと、そんな疑問を抱く者も少なくなかったのではないかと私は考えています。

心に迷いがあれば、自信をもって行動することが出来ず、手柄を立てられません。いざという時に機会を逃すことがないように。死ぬべき時に潔く死ねるよう、私利私欲を超えた確固たる信念を得るために、学問は用いられたのでしょう。
武士に与えられた死と隣り合わせの緊張感が、武力の精髄としては先の脇差心のような形で表れ、治世や生き方の裏付けを得るという点においては、学問の習得という形になって噴出したのだと考えられます。

また、この序文に次いで記される「信繁家訓九十九箇条(古典厩子息長老江異見九十九箇條之事)」は、人の道を追及した武士ならではの深みと迫力があり、後世の武士道発展にも大きな影響を与えたとされています。

本当は全てご紹介したいのですが、膨大になりますので、一部、抜粋してみます。

(三)一、油断なく行儀嗜むべき事。
史記に云く、其の身正しきときんば、令せざれども行はる。その身正しからざるときんば、令すと雖(いえど)も従はず。

(六)一、父母に対し、聊(いささか)不幸すべからざる事。
論語に云く、父母に事(つかうまつ)るに、能く其の力を竭(つく)す。

(八)一、身躰に相当せざる儀、一言も出語すべからざる事。
応機に云く、人一言を出(いだ)して、其の長短を知る。

(九)一、諸人に対し少しも緩怠(かんたい)すべからざる事。
付り、僧・童女・貧者に於て、弥(いよいよ)人に随いて慇懃(いんぎん)すべき事。
礼記に云く、人、礼(老)あるときんば安し。礼なきときんば危し。

(十一)一、学文、油断すべからざる事。
論語に云く、学びても思はざるときんば、罔なり。思ひても学ばざるときんば、殆(おこた)る。

(十六)一、毎事堪忍(かんにん)の二字、意(こころ)に懸(か)くべき事。
古語に云く、跨下の恥は小辱なり。漢の功を成すは大功なり。
又云く、一朝の怒、其の身を失ふ。

(二十二)一、忠節の臣を忘るべからざる事。
三略に云く、善悪同じうするときんば、功臣倦(う)む。

(二十三)一、人を障(ささ)ゆる者、許容すべからず。但し、隠密を以て、聞き届け、玩味(げんみ)尤(もっとも)の事。
語に云く、直きを挙げて、諸㨁(まがれる)を錯(お)くときんば、民服す。

(二十四)一、異見の儀、違背(いはい)すべからざる事。
古語に云く、良薬は口に苦く、病に利あり。忠言は耳に逆うて行に利あり。亦、尚書に云く、木、縄に縦(したが)ふときんば正し。君、諫い従ふときんば聖なり。

(二十九)一、深く知音(ちいん)たりと雖も、人前に於て、妄(みだり)に雑談すべからざる事。
語に云く、三思一言、九思一行。

(三十八)一、人を召使ふ様、其の器量に依って、用所申付くべき叓。
古語に云く、良匠(りょうしょう)は材を捨てず、上将は士を弃てず。

(五十二)一、家来の者、一旦誤り候と雖も、糺明(きゅうめい)して後、覚悟を直すに就ては、夫(それ)に随ひて悔い還すべき事。
語云、勇潔以て進むには、其の潔さに与し、徃事(いんじ)をば咎めず。

(五十六)一、善悪を能く正すべき事。
三略に云、一善を廃するときんば、衆善襄(おとろ)ふ。一悪を賞するときんば、衆悪帰す。

(五十九)一、貴人に対して、縦(たとい)使千万の道理ありと雖も、理(ことわり)強く申すべからざる事。
云、多言は身を害す。

(六十)一、過(あやまち)を争ふべからず。自今後の嗜、肝要の事。
語に云く、過ちては改むるに憚ること勿れ。亦云く、過つて改めざるを是(これ)過と謂ふ。

(七十八)一、人の命を取る事、努々之あるべからざる事。
三略に云く、国を治め家を安んずるは人を得ればなり。国を亡し家を破るは人を失すればなり。

(八十二)一、下人に対し、寒熱風雨の時、憐憫(れんみん)すべき事。
語に云く、民を使ふに時を以てす。

(九十一)一、其の徒党を立つべからざる事。
語に云く、君子は周して比せず、小人は比して周せず。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(上)(P57-83)」 新人物往来社

簡潔にまとまっており、それぞれに含蓄があります。古典からの引用も添えられており、余程学問に精通していなければ、これほどの条文は残せないでしょう(原文は漢文で記されています)。この条文を残した信繁公(武田信玄の弟)も、それを受けた武田家の武士たちも、単なる戦闘上手でなかったことは明らかです。

信繁家訓九十九箇条
画像:国立国会図書館蔵

ただ、学問については、次のような一節もあります。

侍衆大小に学問能(よく)して物しり給はん事肝要なり。但なに本にても一冊おほうして二冊三冊よみて、其理に能々徹し給はゞ、必おほくは学問無用になさるべし。殊に詩聯句などまであそばし候は、猶もつてひが事也。

但又国を半国とも持給う大将は、学問きはめ聯句などもし給へ。文武二道と申て現世未来まで人の誉物(ほめもの)に成給ふなり。されど又国持大将も、物の本部数をよく鍛錬し給ふほどにて、それより武篇場数すくなければ、国持をも少しぬるき様に大略は沙汰する物なり。そこのほどを能分別なさるべき事「也」。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(上)(P10)」 新人物往来社

少し要約します。

武士であるならば、学問をして道理に通じておくことが大切である。ただ、何を学ぶにしても、一冊、ないしは二冊三冊読んで、その本質に達したならば、多くの書物を読む必要はない。

地位が高い武将であれば、学問を究めて詩なども嗜めば、文武両道の武将として名誉を得られるが、書物ばかり読んで戦場での手柄が少なければ、少し鈍い武士であると噂されるので、よく考えなければならない。

と、学問も良いが、武士の本分はあくまでも「武」であることを強調しています。続いて、武士は戦闘による奉公が本分であり、僧侶は仏道、儒者は儒学、商人は商売、百姓は耕作にて本分を全うするのが当然、自分の道をないがしろにして、別のことに夢中になるのは良くないことだ、と話が展開していきます。

このように、甲陽軍鑑は、いくら学問が大切とは言っても、武士は武士であり、戦闘者としての職分を忘れるのは非義であるという考え方で一貫しています。学問は、武士である自分を完成させるために用いるのは良いけれど、その範疇を超えてはいけない。この点に関して、一切揺らぐことはありません。それゆえに、甲陽軍鑑で示される思想は、例えそれが倫理的に見えたとしても、他には類を見ない武士だけの思想「武士道」に他なりません。

繰り返しになりますが、戦国乱世は合戦に次ぐ合戦で、戦闘という行為に向き合うことを余儀なくされました。いくら儒学や仏教が素晴らしくても、目の前には常に戦場があって、それに勝たなければ国はおろか、家族や大切なものを守ることが出来ませんでした。特に武士は、その戦場での活躍こそが、己の存在意義でもあったわけです。

ややもすると、戦場での武勲ばかりを優先し、「戦闘に勝利することのみが大切で、人間としての道徳性など全く価値がない」といった極端な思考になってしまいますが、武田家においては、そのような武士は高く評価されませんでした。武士らしい武士とは、単に暴力に長けた者ではなかったのです。
礼を知り、義理がたく、慈悲深く、人との仲も睦まじくして、かつ目の前の難事を乗り越えていくための現実的な智慧と力がある。このような武士こそが、優れた武士として評価されました。

だからこそ、甲陽軍鑑が示す武士道には格調高さがあり、人間としての普遍的な倫理を育むための土壌となったのです。江戸の平和な時代に入っても、多くの武士に読み継がれたのは、そこにある人間としての気高さ、美しさが琴線に触れるからでありましょう。

甲陽軍鑑で描かれる武士の言動が、後世の武士道の原型となった

ざっと紹介させていただきましたが、戦国乱世においては、死と隣り合わせの日々の中で、脇差心に代表されるような厳しい精神が、武士の武勇と秩序を支えていました。また一方で、武士は単なる戦闘上手ではなく、学問によって人間性を高めることも大事にされていたのです。

戦闘者である自己と、天地自然の一部である人間として自己。どちらかを優先するのではなく、理想と現実的な利害の均衡を図りながら、両立を目指していました。
戦場における武勇と儒学的な道徳とを折衷したものが武田家の武士道であり、それが、後世の武士道に多大な影響を与えたということが、甲陽軍鑑からは読み取れます。

理想主義に逃げるのではなく、時代の情勢や事情を汲み取りながら、清濁併呑の気概で人間としての向上を目指した姿が、私にはとても眩しく思えます。

さて、長くなりそうですので、今回はこの辺りで終わらせていただきますが、次回も引き続き、甲陽軍鑑を紹介いたします。

次回は、儒学や宗教とは別に武士社会の中で自然に育まれた道徳性を探りつつ、その時代に蔓延していた「乱妨取り(乱取り)」と呼ばれた風習にも触れてみます。乱妨取りは、現代人の感覚からすると難しい問題ではあるのですが、この時代の武士を理解するために避けては通れません。
その中で、戦国乱世の武士道とはどのようなものだったのかを、私なりに模索して参ります。

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