事上磨錬
困難の中でこそ自身を磨く
心身を制御するのは難しい
自己観察を継続することによって、心身を中庸に保つこと。それを「不動心」などと申しますが、多くの修行者は、この果てしない境地を目指します。精密な所作で敵を制する柔術も、相打ち覚悟で一歩踏み出す剣術も、この不動心を得るための通過点と言えるかもしれません。
しかしながら、心身を制御するという境地は凡人にとって恐ろしく難解で、まさに「言うは易く行うは難し」といったところです。
日々が順調に進んでいる時は、自己を制御するのは簡単です。不自由のない生活で、明るい未来が約束されているように思えるならば、心身は容易に平静を保てるでしょう。
問題は、自分の手に余る程の困難を抱えた時です。ひとたび転落し、迷いと混乱の渦中にある時、心は悪観念に支配され、平静を保つどころか、自己の内面に目を向けることすら容易ではありません。
そのような時にこそ、自分自身の本心が現れます。取り繕うことも、理想を語ることも出来ず、ただただ耐え、忍び、足掻き、苦しむ。激しく浮き沈みする精神が、どれだけの高潔を保てるのか。口先だけの精進では、押し寄せる圧力に圧倒されるばかりでしょう。
苦しみこそ自己を育てる糧となる
陽明学の始祖、王陽明の言葉に「事上磨錬」というものがあります。本やインターネットから知識を得るだけではなく、実際の行動や実践を通して精神を練り磨くことが重要である、といった教えです。
現実の社会は、決して思い通りにはいきません。予想だにしなかった難事に遭遇しながら、苦しみを克服することで人は成長するものです。
言い換えるならば、苦しみの中でこそ、人は磨かれるとも言えます。ゆえに、見る角度を変えれば、苦しみは忌み嫌うべきものではなく、自分を成長させるための、何物にも代えがたい財産となります。苦しみに感謝するに至って、苦しみは苦しみではなくなります。
修行者は、この世が苦しみで構成されていることを知りながら、その苦しみを利用して心を向上させます。
敵対する相手と斬り合い、殺し合うという武術の構図は、まさに苦しみそのものであり、その中から安寧を得ようと試みることは、「苦しみ」からの解放を目指すことと同じであり、中庸への指標となります。
精神的な境地を目指す道程で、ままならない心身を持て余しながら、耐えて、忍んで、堪えるのもまた、武術者の課題なのでしょう。
理想を追いながら、辛い現実から目を背けず、その時その時で自分に出来ることを精一杯に励む。その姿勢こそが気高く、人が境地へ至る唯一の方法なのかもしれません。
煉誠館は、世の中と向き合い、事上磨錬を実践しながら少しずつでも成長し、昨日よりも今日、今日よりも明日、より良い存在でありたいと願える場所でありたいと考えています。