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弓馬の道から四書五経へ 泰平の江戸時代を維持した儒学と武士道の関係

2019/03/22

前回までは、武士が戦場を駆け、戦いによって名誉を得た戦国乱世の武士道についてお話しました。特に、甲斐国の戦国大名・武田信玄公の語録としての意味合いもある「甲陽軍鑑」を手掛かりに、その厳しさ、切実さ、清濁を併せ呑む価値観についても触れてみました。

⇒【前回:後世の武士の規範となった文武分別の道、武士としての職分を求め続けた『甲陽軍鑑』の思想】

戦国時代の武士は、敵を打ち倒し、国を富ませて領民を守ることこそが重要な役割でした。まだ『武士道』という言葉は一般的ではなく、優れた武士としての明確な規範も存在しませんでしたが、少なくとも、弱くて敵に勝てない武士は尊敬の対象ではありませんでした。

が、その一方で、武士にとっては「結果さえ出せば何をしても良い」という極端な考え方が受け入れられなかったのも事実でした。手段を選ばず卑怯の限りを尽くしていたのでは、単なる略奪者です。武士は戦闘者であると同時に、国を治める為政者です。悪逆非道なだけの罪人が国を治めることなど出来ようはずがありません。

無論、戦場における武略としては、騙し討ちや乱取り等の方策も採用されましたが、それは戦場における術の一つであり、人間としての在り方とは明確に区別されました。そして、それを判断して線引きする「分別」こそが、清濁の彼岸にある武士としての重要課題であると武田信玄公は定められたのです。

国と国とが騙し合い、出し抜き合うことで勢力図が入れ替わっていた戦国乱世。
思い通りにならない現実とどう折り合いをつけていくかという思索は、武士の行動規範と道徳律の昇華を促しました。それは清冽なる美しさであると同時に、ある側面から見るとこの上なく残忍なものに思えるかもしれません。

第一に合戦に勝つこと。何よりも勝つことを最優先事項とし、そこに己の存在意義を見いだし、時には非情な手を使ってでも勝利をもぎ取る覚悟。一方で、人間としての美しさを求めながらも、それが許容されない現実に向き合う姿勢は、迷いや葛藤が整理されないまま共存する混沌とした思想を生み出します。

その混沌とした思想こそが、善悪二元論では計れない状況判断の結晶であり、武士の強固な精神性の裏付けとなっていたのです。

※当ページの画像は、国立国会図書館ウェブサイトより転載させていただいております。

戦国乱世から泰平の世へ 従来の価値観を封じられた武士の葛藤

戦国時代、合戦での功績によって名誉を得ていた武士の在り方は、江戸時代に入って大きな変革を迎えることになります。

1615年5月、大坂夏の陣にて豊臣家が敗北した直後、江戸幕府によって元和偃武(げんなえんぶ)が広布されました。これは豊臣家の滅亡によって国が平和になったという宣言で、おおよそ100年に亘って続いた戦国乱世の終わりが告げられたのです。

それ以降、国どうしの争いは「私闘」として正式に禁止され、戦国時代のように政治的、経済的な施策として合戦を行うことは出来なくなりました。隣国から攻め込まれる脅威に怯える必要がなくなり、民衆にとっても理不尽に田畑を荒らされる心配もなくなりました。また、国どうしの争いだけではなく、個人間の争いも大きく制限されるようになります。喧嘩をすることも、武力で物事を解決することも難しくなったのです。
それは、この時代に生きる人たちにとって素晴らしいことのように思えたかもしれません。

が、そのような状況に対して違和感を覚えた者たちがいます。他ならぬ武士たちです。少し前までは、合戦こそが己の存在価値を示す恰好の場であったのに、それを否定され奪われたのです。

あくまでも戦闘者としての自分を支えとしていた戦国武士。口論になればすぐさま刀を抜いて相手を斬り殺すような「脇差心」が誉であったのに、それが許されないどころか不調法と蔑まれるようになったわけです。
否応なしに自分自身の存在価値と向き合い、合戦のない世の中に適応することが求められました。

そのような変化に適応できる武士は良いですが、当然そうでない者も存在しました。今までの価値観を否定されたことを侮辱と感じる者もいたでしょうし、訳の分からないことを言い出した徳川幕府へ一矢報いようと機会を伺う者もいたことでしょう。荒々しい気性を持つ戦国武士が、黙って従うことの方が少なかったと思います。

ですが幕府は「一国一城令」や「武家諸法度」などによって、強引に武士たちを制御していきます。諸国の軍事力を抑圧し、法度に逆らった際は厳しく処罰(改易、減封など)して、幕府に歯向かうことが出来ないように仕向けていきました(江戸幕府の経済的、軍事的な基盤を背景に、各種の法制度によって強引に統治するやり方を、武断政治と言います)。

多くの改易などにより、一時は浪人が増えて治安が悪化することもありましたが、それらも鎮圧され安定した世相へと変わっていきます。4代将軍家綱の時代には文治政治と呼ばれる緩やかな統治方法が採用され、戦国乱世の名残も消えて泰平の世となります。

この時代、『武士道』という言葉自体はまだ普及していませんでしたが、武士の在り方の理想形を定義したものを武士道と呼ぶのであれば、戦場を前提とした今までの武士道は封じられ、新たな時代に適応する思想へと変化を余儀なくされました。

戦国乱世と江戸時代以降の泰平の世では、根幹となる部分で共通点がありつつも、大きく違った行動律を求められるようになったのです。これは、武士道を知るうえでとても重要なポイントです。

戦闘者であることを求められながら、一方で戦いを禁じられるという矛盾

戦場がなくなった世相にあって、武士たちは戦働きで身を立てることがほぼ不可能になりました。江戸年間240年を通して起こる目立った争いと言えば、幕末の動乱期を除けば「由比正雪の乱」「島原の乱」「大塩平八郎の乱」くらいでごく僅かです。

江戸時代に入って合戦がなくなった理由は多々ありますが、大きな原因の一つとして「私闘(合戦も私闘の範疇)」が禁じられたことが挙げられます。幕府は、「争いがあった時は勝手に判断せず、役所に相談すること」という流れを作りました。これは、武士が守るべき規範である武家諸法度にも記されています。

よって、例え合戦に長けた武士であったとしても、実際にそれを用いる機会はありません。強引に武力で解決しようとすれば、逆に罪人として裁かれ不名誉な結果となります。戦国乱世では名誉と富に直結していた武の力が、平和な世の中では無用の長物となってしまったのです。

とはいえ武士が必要とされなくなったわけではありません。武士は戦闘者であると同時に為政者でしたから、国(藩)を統治して富ませるという政治家としての役割が残されていました。戦国乱世においては合戦も政治的手段の一つでしたが、その選択肢は失われたので、農業や商業などを活発にし、民衆がより快適に暮らせるような制度を作る統治の手腕が問われるようになります。

今までのように何を差し置いてでも武力を第一とし、合戦の勝利によって名誉を得るという生き方は出来なくなったのです。誤解を承知で言えば、武士にとって兵法を身に付けることは二の次となり、優先順位が下がったといえます。

このような転換期を迎え、武士は戦いの術を全て捨て去り、平和的に人々を治めることのみに専念したのでしょうか。

実はそうではありません。例え平和な時代になっても、武士はあくまでも戦闘のプロとして、武力を磨き続けることが義務付けられていました。これは、武家諸法度の一番最初にある「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」の条項(5代将軍綱吉の時代に「文武忠孝を励し礼儀を正すべき事」に改定)によっても明確になっています。

藩幕体勢によって、将軍と各国の武士たちは主従関係を結んでいましたから、もし将軍に反旗を翻す者が現れたら、すぐさま参集して鎮圧しなくてはなりません。各藩の経済状態をコントロールするための方策とされている「参勤交代」も、有事の際に江戸に駆けつける予行練習という側面があったようです。
また、話の通じない無法者が平和を乱せばやはり武力がものを言いますし、外国からの侵略があれば、それに立ち向って戦う必要もあります。
そして、忠臣蔵の赤穗四十七士、鍵屋の辻の荒木又右衛門など、武士が武力によって正義を行った行為は、ある種の憧憬の的となり続けました。

このように、平和な時代にあっても武士はあくまでも武士であり、戦闘者としての側面を欠かすことは出来ませんでした。ただ、その側面が平時は封印され、滅多に訪れなくなったということです。

普段は使うことがなく、せっかく身に付けても一生涯使う機会がないかもしれない。けれど万が一に備えて常に腕を磨いておく必要がある。それが泰平の世の武士にとっての武力でした。
備えは必要だけど使い道がないという矛盾。それが武士に及ぼした影響は、とてつもなく大きいものでした。武力を備えることを大前提としながらも、武力で功績をあげること以外に己の名誉を見出し、国や家庭を守る方法を模索しなければならなくなったのです。

朱子学の奨励による秩序の維持と武士道の変革

戦いの術によって功を上げることが出来なくなった武士は、では何をもって己の存在意義を示したのでしょうか。

その答えの一つに「学問」がありました。この時代で武士が学ぶ学問の代表といえば、何を置いても「儒学」です。

それまでは、武田信玄公の甲斐国など一部では学問が重視されていましたが、まだまだ一般的ではなく、学問は僧侶など一部の人間のみが修めるものと認識されていました。
新渡戸稲造の著書である「武士道(Bushido The Soul of Japan)」の影響によって、武士の代表的な徳目として知られるようになった忠、義、礼、誠といった儒学的思想も、江戸時代以前にはあまり浸透していなかったのです。道徳よりも武力による勝利が大切という考えが多数派で、勝ちを捨ててまで道徳を重んじることなど有り得ませんでした。
その流れもあって、江戸時代の初期には「武士は学問よりも武力こそ肝心」という気風が根強く残っていたのです。

そのような武辺重視の意識を変えるため、江戸幕府は官学として儒学を採用しました。儒学の中でも「朱子学」を、武士が修めるべき学問として正式に広布しました。
この方策は徳川家康の代から始まりますが、5代将軍綱吉はより学問を重視して、徳によって世を治める文治政治を推進しました。その姿勢は、綱吉時代に改訂された武家諸法度の条文「文武忠孝を励し礼儀を正すべき事」にも現れています。改訂される前は「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」と武力主体であったのが、忠、孝、礼など儒学の徳目を重視するよう主旨が変わっています。

幕府が儒学を奨励した理由は、主に治安の向上と政権維持にあったとされています。
それまでの武士は、戦いや軍略によって権利を勝ち取るという思想でしたから、その意識を根底から変えなければ、いつ戦乱の世に戻っても不思議ではなかったのです。
実際に、江戸時代の初期には「慶安の変(由比正雪の乱)」や「承応の変(戸次庄左衛門の乱)」など、幕府を転覆させるための企てが立て続けに起こっており、今までの武断政治では立ち行かなくなったという事情もありました。
ゆえに幕府は、武力ではなく徳目によって世を修める儒学を奨励し、平和な世を作り出そうと考えたのです。

このような背景があって武士は学問を無視することが出来なくなりました。武士が周囲に評価され、立派な人物であると認められるためには、学問を身に付ける必要があったのです。武術も大切ですが、加えて学問を修め文武に秀でることが、以後の武士の課題となりました。立身出世のためにも学問は必須となりました。

ここで注目すべきは、数ある儒学の流統の中で「朱子学」が奨励されたという点です。
厳密に言えば、幕府が官学としたのは、「中国で発祥した朱熹を祖とする朱子学」ではありません。徳川家康が重用した儒学者「林羅山」が再構築した日本的な朱子学です。羅山は、朱子学の一部である上下の秩序、主従関係、礼節を重んじる大義名分論を推し進めて「上下定分の理」を打ち出し、それを官学の骨子としました。

上下定分の理とは、簡単に説明すれば、「天と地の上下は絶対に入れ替わることがない。それが宇宙の法則である。であるから、君主と家臣、父と子、夫と妻、兄と弟などのあらゆる人間関係にも上下があり、それは絶対に逆転しない」というものです。
つまり、幕府と藩、将軍と諸藩の武士の関係もそれと同じで、上下関係は絶対であり覆らない、と念を押したわけです。現代においても、忠義は武士の美徳であるいう印象が強いわけですが、その根幹には、このような事情も関わっています。

この林羅山が提唱した学説は、本来の朱子学とは方向性が違うものでしたが、荒ぶる武士を抑えつけて平和を維持するために都合が良かったことから幕府に採用されました。
よって、朱子学が官学になった時から、武士が修めるべき行動規範は大きな変革を迎えることになります。
弓馬よりも四書五経。戦国期までの武士道と、江戸以降の武士道が全く違う性質を持っているのは、この朱子学の影響が絶大であったためです。

下剋上の芽は摘み取られ、脇差心のように瞬発的な武力によって身を立てることも忌避されて、武士は新しい生き方を模索することになります。
ここが、武士道の大きな転換期となります(この時点においても武士道という言葉は一般的ではありませんが、便宜上、そう表現させていただきます)。

武士が学んだ儒学の流れ、朱子学以外の学派

江戸幕府公認の学問が朱子学となったこともあり、日本は新しい秩序の元に統治されることになりました。
「君主は尊く、臣は卑しき」と将軍の権威は強められ、天地の中心である将軍に仕えることが民衆の役割であるという思想が公認となったのです。

これは、身分や地位による上下関係が朱子学という後ろ盾によって決定付けられたという意味でもあり、原則として身分が上の者には逆らえず、下の者は御上に服従するのが当然であるという構図が出来上がったのです(ただし、これが直接の差別主義につながるわけではありません。あくまでも役割分担と立場が明確になっていたということです)。
この装置によって江戸時代の長きにわたる平和が訪れたとも言えますが、一方で極端な支配イデオロギーの温床ともなりました。

全ての武士が朱子学の思想を受け入れていたわけではないでしょうが、建前として朱子学の思想が基盤として機能していたのは、後の武士道の変遷を見ても明らかです。武士道の根底には、やはり厳格な上下関係というものが存在し、それは朱子学の影響を少なからず受けていると私は考えています(武士の主従関係は、鎌倉時代より続く御恩と奉公の伝統の上に敷かれたものですが、それと朱子学の上下関係は異なっています)。

いずれにしても、武士であるからには、幕府公認の朱子学を軽視することは出来なくなりました。
特に武士の子弟については、幼少の頃から地域の共同体や私塾を通じて、あるいは時代が下って設置された藩校において、朱子学の解釈で四書五経などを学ぶことになります。

ですが実際のところ、江戸時代の儒学の勢力は、幕府公認の朱子学だけではありませんでした。
江戸時代を通して、儒学を研究していた儒学者の中には、幕府公認の朱子学に疑問を感じる者も少なからず存在していたのです。そして、それぞれが自分の支持する学派の論理を探求し、私塾などでその教えを説いていきました。
武士たちは、前提として朱子学的な立ち位置を意識しながらも、見分を広めて己を高めるために朱子学以外の学問も幅広く学んだのです。
江戸時代では製本の技術も発達していましたから、朱子学以外の儒学に関する書物も発刊されており、そのような手段を通じても武士は学問を修めることが出来ました。

では、江戸時代に武士が学んだ朱子学以外の儒学の学派とは何だったのでしょうか?
ここでは、代表的な二つの学派を簡単に紹介いたします。

陽明学派

まず一つめは、朱子学と双璧を成し多くの武士の行動を支えた「陽明学」です(ただし、江戸時代当時は陽明学という呼び方はされておらず、「王学」などと呼ばれていたようです)。

陽明学は儒学の一派で、朱子学の解釈に懐疑的だった「王陽明」が確立した学問です。朱子学よりも後になって生み出された新興勢力で、日本には江戸時代になって伝来しました。

朱子学が上限関係を主とした法則性(世界のルール)を「理」と定めたのに対し、陽明学では、邪欲を取り去った自分自身の心の中に「理」があるとしています。その理を陽明学では「良知」と呼びます。良知は、人が生まれながらに持っている良心のようなものです。適切に善悪を判断することの出来る道徳的な指針であり、良知が発現している心がそのまま世界の理となります。これが陽明学の支柱となる「心即理」説です。

朱子学が「天地が覆らないように、身分の上下は絶対的。だから下の者は上に逆らってはならない、服従せよ。逆らうのは理から外れている」というような法則を外部から持ち込んだのとは対照的に、陽明学では「例え身分が上であったとしても、悪事を働き民衆を踏みにじるような者に従う理由はない。そう心(良知)が判断している」と内部の声こそが法則であると断定したのです。
何が正しくて何が間違っているのかという判断基準は、知識として学ばなくても、元々人間の心の中に(良知として)備わっているという考え方です。

ここで注意すべきは、良知というのは、あくまでも「邪欲を取り去った心」に存在するということです。心身を修める努力をしない欲望にまみれた心は良知を発現しません。汚れた心にあるのは、良知とは全く別物の「邪欲」であり、その発露による言動は正しいものではありません。ここが陽明学の難点であり、危険性を孕んでいる部分です。

ただ、現代的な感覚で言うと、朱子学よりも陽明学の思想の方が納得しやすいのではないでしょうか。一部の企業や国政などでは、まだまだ朱子学的な上下関係絶対主義が残っているようですが……。立場や身分に関係なく、良知に従って間違っていることは間違っていると言えるのが陽明学です(ただし、上下関係を全て否定するわけではありません。上下関係が大切であるという理も良知が教えてくれます)。

これは、支配する体制側にとっては迷惑で恐ろしい思想とも言えます。幕府にとって民衆を治めるのに都合の良い学問は朱子学であり、陽明学は歓迎されませんでした。実際、「寛政異学の禁」などによって、朱子学以外の学問が規制されることもありました。が、己の良心に従って決断するという、戦国より続く武士の気概にも合致するこの思想は、多くの武士の支えとなったのです。

日本における陽明学の祖は、近江聖人とも呼ばれる中江藤樹、そしてその弟子である熊沢蕃山です。以降、大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛など、時代を揺り動かした武士たちが陽明学に傾倒し、その教えをその身で体現しました。

古学派

もう一つは「古学」と呼ばれる学派です。朱子学や陽明学は、孔子や孟子の教えを始祖(朱子学は朱熹、陽明学は王陽明)が独自の考えで解釈して体系化した学問ですが、古学はそれら後世の人物の解釈を取り入れず、オリジナルである経典の教えを直接的に学ぼうとする一派になります。

古学派の代表的な人物としては、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠の三名で、まず最初に山鹿素行が古学を提唱しました。続く伊藤仁斎は「古義学」、荻生徂徠は「古文辞学」を確立し、それぞれの考え方は差異があるものの「朱子学への批判」をいう点で共通しています。

朱子学は江戸幕府が公認した学問でしたが、その体系は、始祖である朱熹による解釈によるものです。さらに江戸幕府公認の朱子学は、林羅山独自の解釈も加えられており、幕藩体制の正当性を示す装置でもありました。
よって、儒学の原典である孔子や孟子の思想とは相容れない部分も多く、古学派の儒者はそこに目を付けて、朱子学は儒学本来の思想ではないと欠点を喝破し、古典に立ち返ることを提唱したのです。

古学派の中でも、特に山鹿素行は後の武士道に大きな影響を与えています。
山鹿素行は儒学を研究する傍ら、平和な時代における武士の存在意義や、在るべき姿を模索していました。武士は農工商の身分の上に立つ者として、自らを律して人のあるべき高潔な姿を体現し、三民(農工商に携わる人々)の見本になる必要があると説いたのです。そして、その修身の基盤として儒学(古学)を置きました。

従来の武士が持っていた「戦いに勝利して国や家族を守る」という価値観を過去のものとし、平和な時代に合った新しい武士の職分を定義したのです。この山鹿素行が提唱した武士の生き方を「士道」と呼びます。

士道? 武士道とは違うの? そう思われた方もいらっしゃると思いますが、まさにここが『武士道』という思想の理解を難しくしている転換点です。

確かに、礼儀を重んじて儒学の徳を練るという士道の在り方は、現代人の我々が思い浮かべる『武士道』の姿と合致しています。戦国乱世までの、戦闘者としての武士が身に付けるべき激しい思想よりも、武士道というイメージに当てはまるかもしれません。

儒学的な解釈で武士を定義した山鹿素行の思想はあくまでも「士道」です。が、新渡戸稲造の著作である「武士道(Bushido The Soul of Japan)」を経由して現代人が想起するところとなった、いわゆる『武士道』の中にもその要素は含まれています。

ちなみに、赤穗四十七士の筆頭である大石内蔵助も山鹿素行の教えを受けており、討ち入りに至る過程には、この士道の影響があると考えられます。

と、あまり詳しく掘り下げると余計にややこしくなりますので、今はこの程度にしておきます。
とにかく、儒学的な解釈によって山鹿素行が定義した武士の在り方を「士道」と呼ぶとだけ押さえておけば、ここでは問題ありません。現代人の思い描く『武士道』の系譜は様々で、多種多様です。

少し話は逸れましたが、古学派とは、幕府公認の朱子学に疑問を持ち、儒学本来の姿を模索して生まれた日本独自の思想です。もちろん幕府非公認の学問ですが、後の世に大きな影響を与えました。

戦国武士道とは異なる道を歩む、江戸時代以降の新興武士道

以上のように、江戸時代以降は儒学が武士の基礎的な素養となり、制度のみならず思想面においても多大な影響を受けることになりました。

戦国時代、合戦を駆け抜けた武士たちが心の支えとしていた生き方を仮に「戦国武士道」とするならば、江戸時代以降の儒学の性質を持つ武士の思想はそれとは大きく異なります。

後に詳しく紹介しますが、儒学的性質を帯びた『武士道』の代表格である山鹿素行の論述「士道(山鹿語類・巻二十一に収録)」においては、例え熱心に武力を養っても、(儒学的な)道を知らなければさほど価値がない、といった意味の記述も見受けられます。戦国時代の「武力による勝利が第一で、敵を欺く非情な手段も武略の範疇」といった善悪併呑の気風は感じられません。というよりも、合戦や武略に関する話題自体が少なく、もっぱら平和な時代での武士の役割について説かれています。

甲陽軍鑑においても学問の重要性は説かれていましたが、それはあくまでも補助的なものであって、第一は合戦に勝つこと、勝利して国や家族を守ることが最重要とされていました。武力の練磨を差し置いてでも学問を修めるなど武士の在り方ではなく、儒学的な徳目よりも、己の意地、国、家族を守るといった私的な目標が優先されました。

が、そのような考え方は、儒学によって統制された泰平の世では通用しなくなります。武士道は、儒学的な解釈によって時代に即した思想へと変化していくのです。

次回は、江戸時代に記された武士道関連の書物をいくつか紹介しながら、当時の武士がどのような思想を持ち、何を心の拠り所にしていたのかを探って参ります。

戦国乱世の武士道と泰平の世の武士道では、その趣が大きく違います。もちろん、武士という存在は戦国以前からの延長線上にあるため共通点も多いです。が、より公的な存在として位置づけられた武士たちにとって、守るべき対象や貫くべき価値感が戦国乱世と同じであるわけがありません。

その辺りを掘り下げることが出来れば、『武士道』という実に分かりにくく曖昧な思想を理解する糸口になるのではいかと考えています。

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