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後世の武士の規範となった文武分別の道、武士としての職分を求め続けた『甲陽軍鑑』の思想

2017/07/13

今回も引き続き、甲斐の国、武田信玄公にまつわる甲陽軍鑑を手掛かりに、「武士道」について紹介して参ります。

前回は、甲陽軍鑑が記された戦国乱世の時代背景を探りつつ、乱取りについても触れてみました。合戦は、敗れた国にとっては地獄であり、それを避けるため、武士たちは清濁を併せ呑んで、ぎりぎりのところで判断を下しながら、生き残るための戦いを繰り返したのです。

⇒【前回:敗北を徹底的に拒絶し、清濁を併せ呑んで国を守ろうとした『甲陽軍鑑』の武士たち】

人間としての、理想の生き方を求めたい。甲陽軍鑑に描かれる武士たちは学問に通じていましたから、当然、そのような欲求があったでしょう。でも、時代がそれを許さない。例え自身の信条を曲げてでも、国を、領民を、家族を守らなくてはならない。
ままならない現実の中に生きた当時の武士たちは、自らの境遇を受け入れながら、「生きる意味」を模索していたのです。

それを鑑みれば、甲陽軍鑑の武士たちが培った武士道には「思い通りにならない人生と、どのように折り合いをつけていくか」という、現実的な思索が根底にあるように感じます。

ゆえに、この時代の武士道は、近代に入って生まれた、美しすぎる道徳的思想でないことは明白です。
道徳とは「善悪を知り、行為を正しくする」ということですが、乱取りの例一つを挙げてみても、武士は必ずしも善を追及するわけではありません。無論、状況が許すのであれば、それらの判断を重んじるのは間違いありませんが、物事の優先順位を決めて、場合によっては「武略」を用いることもあったのです。

これは、武士道を知るという意味で、とても重要なポイントです。武士は清濁の中に身を置く存在であり、理想だけを追い求める存在ではないということを忘れるわけにはいきません。

では、甲陽軍鑑に描かれる武士たちが、自らの言動を決した判断基準とは、具体的にどのようなものだったのでしょうか。
後の世に「武士道」と呼ばれる思想、その源流ともいえる甲陽武士の人生観を紹介してみたいと思います。

※画像については、国立国会図書館ウェブサイトより転載させていただいております。また、引用については、主に新人物往来社の「改訂 甲陽軍鑑(磯貝正義・服部奈治則校注)」を参考にさせていただきました。

人間にとって、「分別」が万事の基本となる

甲陽軍鑑において、武士が心得るべきとされる行動規範は多々ありますが、その代表格として「分別(ふんべつ)」が挙げられます。特に、武田信玄公の言行録とも言える石水寺物語(品第四十)には、この分別に関する記述が散見され、様々な例を交えて、重要性が説かれています。

分別は、現代日本においても用いられる言葉ですが、「状況や条件などを考慮しながら、物事を適正に判断する能力」といった意味です。これは、甲陽軍鑑が書かれた戦国時代においても同様で、例え戦闘上手であったとしても、この能力がなければ、武士として認められることはありませんでした。

分別さへ能々(よくよく)すぐれてある人は、才覚にも、遠慮にも、人をしるにも、功をなすにも、何事に付ても、よからん。去程に、人間は分別の二字、諸色のもとと存知(ぞんじ)、朝(あした)に心さし、暮(ゆうべ)に思ふても、分別をよくせよと信玄公宣(のたまう)也。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(中)(P385)」 新人物往来社

分別に優れている人は、とっさの時に機転が利き、言動も正しく、人を見抜くのも、功績をあげるのも、全てにおいて良い働きをする。

ゆえに人間は、分別こそ万事の基本であると心得て、朝から夜まで、常に分別を正しくする努力をせよ、と武田信玄公は仰った。

このように、武田信玄公は、分別というものを相当に重視しておられたようです。武士にとっては、学問や武芸を修めることと同じくらい、分別を磨くことが大切にされていたのです。
それ故に、分別のない者は、信用が置けない「がさつ者」として、否定的に捉えられていました。

扨又かさつ仁(じん)は、分別も遠慮もなく、無理に物を申、遠慮者・分別者の詞(ことば)未練と思へ共、勝負をつくる処にて、始て妻子を思ひだすにより、はたしぎはにて、かさつ者は、必最期(さいご)随分になし。さてこそ、かさつは臆病の花なり。(と仰らるゝなり。)

一、信玄公宣(のたまう)、右かさつ者は、分別も遠慮(も)なきゆへ、恥をもあまりしらずして、縦(たとい)親兄弟不慮に殺害にて死(しし)(て)、敵(かたき)ありとも、其敵をうたんと思ふ事もなく、常のかさつに違(ちがう)て、合戦せりあひの時も、必かさつの者は、人なみより結句内にして、しかも又それに付ても、種々のことはりをいひたがる事、偏(ひとえ)に分別なくして、遠慮なき故也。(と宣。)

(後略)

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(中)(P375)」 新人物往来社

がさつな人というのは、分別もなく無理に物を言い、分別のある人が言葉の少ないことを未熟であると考えている。が、いざ勝負という時に、妻子のこと(普段から考えておくべき大切なこと)を突然思い出して慌てるので、がさつな者は必ず失敗する。ゆえに、がさつは臆病の元なのだ。

さらに信玄公は仰った。そのがさつ者は、分別も遠慮もないから、恥を知ることもない。例え親兄弟が殺されても、その敵を討とうともせず、合戦においても、がさつ者は人並み以下の働きしか出来ない。しかも、そのことについて、様々な言い訳、弁解を述べたがる。これもひとえに、分別なく、遠慮を知らないためであろう。

分別のないがさつ者は、恥知らずな臆病者で、人並み以下の働きしか出来ない。そのくせ、分別ある人を侮り、失敗した時も言い訳ばかりする。と、辛辣に批判されています。

また、次のような一節もあります。

一、或時信玄公、御咄(はなし)衆に尋給ふ、奉公人の上に、大身小身の侍は申に及ばず、下々の者迄、相手におそろしき人有。是は何(たる)人ぞ、見出し候へ、と御諚(じょう)也。各不叶そこにて、信玄公仰らるゝは、無分別人の事也。子細は、彼無分別人、跡先(あとさき)をふま(へ)ず、口に任(まか)せ、手に任、法外の仕形あり。

左様の人は、必つばきはにて、後(おくるゝ)といへども、よき分別ある人は、兼々穿鑿をよくいたすにより、無分別者(つばぎはにて)のがれたがるとも、申いたしてからは、のがさず勝負をつくる(也)。よき分別者が、あしき無分別のものと相手になり、徒(いたずら)に身をはたすなれば、是を思案して見られよ。分別なき物は、おそろしき人にてはなきかと宣也。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(中)(P381)」 新人物往来社

ある時信玄公は、御咄衆に「奉公人のことであるが、身分の高低に関係なく、相手にすると恐ろしい人がいる。それはどういう人か分かるであろうか? 考えてみなさい」と尋ねられた。

みな、答えられないでいると、「それは、分別の無い人だ。無分別者は、関わると恐ろしい」と信玄公は仰る。

「なぜなら、分別の無い人は、後先のことを深く考えず、感情や状況に流されて、理に適わない行動を取るからである。ここぞという重要な場面で、必ず失敗するのだ」

「逆に、分別のある者は、常日頃から、様々な状況に対応出来るよう考えを巡らせているから、無分別者が逃げ出したくなるような場面でも、踏みとどまって勝負し、良い結果を出す」

「分別ある者が、分別の無い悪しき者と交流すると、無駄に消耗して身の破滅を招くことになる。それを思えば、分別の無い人ほど、関わって恐ろしいものは他にない」と仰った。

この一節では、分別に欠ける者はいざという時に役立たないばかりか、関わることすら有害であることが示唆されています。

このように、石水寺物語では、武田信玄公御自ら、分別の重要さについて説かれています。かなりの分量を割いて記載されていますので、甲陽軍鑑の編纂者にとって、この分別に関するくだりは、余程重要に感じられたのでありましょう。自らの主君が熱を入れて説いていたのですから、その価値観は、武田家重臣の間で幅広く共有されていたことは想像に難くありません。

武田信玄公は、何故これだけ分別というものに重きを置かれていたのでしょうか。

私の解釈では、以下の三点が主な要因であると考えております。

1.分別のない者は戦場で役に立たない

2.平時においても、無分別のがさつ者は平和を乱す

3.武士としての自己を高めるには、分別が不可欠

まず、現実的な問題として「分別のない者は戦場で役に立たない」ということが挙げられるでしょう。
武士は戦闘が職分でありますから、戦場での活躍が第一に求められます。特に、戦国乱世においては、戦場で役に立たない武士は、武士として一流とは言えませんでした。

分別のない者は、戦場においても感情のままに行動するため、功を焦って味方に迷惑をかけたり、いざという時に逃げ出したりして、役に立たなかったのです。場合によっては、戦局を左右するような致命的な隙すら生み出してしまいます。その上、失態を認めずに言い訳を重ね、同僚に責任を押し付けるような恥知らずなことも行うとあれば、これはもう、背中を預けて戦場を駆ける仲間としては不十分です。

それだけではありません。平時においても、無分別のがさつ者は、思慮が浅く、後先のことを考えないため、傍若無人に振る舞います。仲間や領民に対して遠慮しないため、良好な関係を築くことも出来ません。例え悪気がなくとも、その言動は平和を乱すわけです。

この時代の武士は為政者であり、権力者です。言い方を変えれば、生殺与奪の力が、武士には与えられていたのです。そのような立場にある者が、分別なく政治を行えば、その国はどうなるでしょうか。

獅子身中の虫、という言葉がありますが、無分別者は、自国を内側から疲弊させてしまう恐れがあります。敵国に勝つどころか身の破滅を招くことになり、戦国随一の戦上手であられる武田信玄公が、分別の大切さを周知徹底しておられたのも、それを防止するためであったのでしょう。

武士は、権威の主体が「力(武力、権力)」であるため、少しでも道理を外れると、社会に仇なす「ならず者」になってしまいます。現代においても、武力を持つ武術者や格闘家が分別なく行動していては、周囲にとっては迷惑でしかありません。また、権力を行使する立場にある政治家が、国益よりも私欲を優先していたのでは、国民の不満が増し、国の力は衰えるばかりでしょう。

武士に与えられた「国を富ませ、領民を守る」という役割を全うするためには、分別は、欠かすことの出来ない重要な素養だったのです。よって、武士の間で、分別という能力が重んじられたのも、当然の成り行きと言えましょう。
いつの時代も、横暴で衝動的に動く無分別者は、疎まれるばかりで良い評価を受けることはありません。

分別こそ、武士が武士であるための要訣であった

一方、それら直接的な側面とは別に、武士が「武士としての自己を高める」という目的において、分別が有用であったのも間違いないと私は考えています。

武田家の武士は、神道、仏法、儒学などに触れ、精神的な模索を日常としていました。ですが、戦国乱世という時代背景が、それらの理想を許さないことも、多々あったのです。

繰り返し述べてきましたが、武士はあくまでも武士であり、僧侶や学者ではありません。精神的な悟りを得ることよりも、世俗に沿って利益を追及することが、武士に課せられた役割でした。神仏や学問の教えを好んでいても、国を守り、敵からの侵略を退けるため、時として、その思想に反することも行わなくてはならなかったのです。

現実に即して、武士としての役割を全うする自分。
理想を求め、人間としての精神の在り方を模索する自分。

その狭間で、可能な限り人間としての真理を追究し、如何に行動するべきかを取捨選択してきたのが武士であります。が、この立ち位置は非常に難解で、柔軟に変化しながら機転を利かせないと「ここぞという重要な場面で、必ず失敗する」のです。

勝利のみを追い求め、武略という建前で略奪行為に疑問を抱かなくなれば、人間としての尊厳を失います。武士道という大義名分の元に悪行を正当化して、非道の限りを尽くしていては、身の破滅を招くでしょう。
あるいは、随神の道、仏法、五徳のような理想ばかりを追い求めては、敵を殺すことも、武略で騙すことも出来なくなります。道徳という大義名分の元、国を守るという本来の役割が疎かになります。

現実と理想、そのどちらに偏っても武士としては失格でした。ちょうど良いバランスで、本来の役割を果たせるギリギリのところで適切に変化していく「中庸」こそが、武士が武士であるために不可欠な素養であったのです。

それゆえに、武田信玄公は、繰り返し分別の重要さを説いておられたのです。分別によって中庸が保たれるからこそ、武略は武略として機能し、道徳は道徳として機能する。分別を介することで、培った武技、法や学問が現実的な威力を備えて、あらゆる言動が武士の業となりました

「分別に優れている人は、とっさの時に機転が利き、言動も正しく、人を見抜くのも、功績をあげるのも、全てにおいて良い働きをする」

武田信玄公のこの御言葉は実に単純明快ですが、武士が武士であるための要訣が含まれていると感じます。

そして、分別を得るための方法と効能については、以下のような記述もあります。

一、或時、信玄公仰らるゝ、人は遠慮の二字、肝要なり。遠慮さへあれば、分別(者)にもなる。子細は、(万事を)遠慮して我分別に及ばざる所をば、大身は能家老に尋、小身は親類か扨は友・傍輩のよき近付に談合して、理をすますなれば、越度すくなし。
去程に、分別のもとは、遠慮なり、といやしくも信玄は「在るに、惣別は」、存ずるぞ。惣別人間は、遠慮ふかうして、才覚ありて、分別有ならば、何にても仕り出し、後の世までも、とゞめをかん。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(中)(P376)」 新人物往来社

ある時、信玄公が仰られた。人間にとって「遠慮」の二字が肝要である。遠慮さえあれば分別も得られる。なぜなら、未来のことまでよくよく考えて、自分で判断できないことがあれば、大身であれば優れた家老に尋ね、小身であれば親類や友人などの良い相手と相談し、物事の道理を判断するならば、落ち度は少なくなる。

であるから、分別の根本は遠慮である、といやしくも信玄は考えているのだ。総じて人間は、遠慮を深くして、才覚があり、分別を心得ているならば、何事においても上手にこなし、後の世に名を残すことが出来るであろう。

分別を得るためには「遠慮」が重要であり、遠慮さえ徹底していれば、失敗も少なく、分別を発揮して良い結果が出せる、といった意味になります

なお、現代日本においては、他人に対して言動を控えめにする、といった態度のことを遠慮と表現しますが、戦国時代においては、文字通り「遠い未来のことまで、よくよく考える(慮る)」という意味で用いられていました。感情的、衝動的に行動せず、先々のことを考えて計画を練ることが大切ということです。

この考えが元にあるからこそ、武田家では、武力一辺倒になることなく、学問や仏法を学ぶことが推奨されたのかもしれません。無論、人間的な成長や探求のためにも有用であったのでしょうが、分別を得るために、人間や世の中の機微を学んだというのも間違いないでしょう。

また、武田信玄公は、「透破(すっぱ、とっぱ)」や「歩き巫女」と呼ばれる、忍衆を使って、全国各地から情報を集めておられましたが、そこにも、遠慮を重視する姿勢が見て取れます。敵国の情報は、多ければ多いほど未来予測の精度が高まり、合戦や政治を有利に進めることが出来るため、情報収集に重きが置かれたのも当然のことです。

このように、甲陽軍鑑で描かれる優れた武士の根底には「分別」があり、基本的かつ重要な素養として位置づけられていました。合戦での勝利、国の平和、隣国との政治など、単純な善悪では解決出来ない場面では、分別による適切な判断が、国の命運を握っていたからです。

武士を理解するためには、この「遠慮を裏付けとした分別」という考え方を、しっかり抑えておく必要がありましょう。明確に善悪を求める道徳的な観念ではなく、振れ幅を許容する曖昧な状況判断こそが、武士の言動に現実的な力を与えるのです。

敵の何を否定するのか? 多様性を認めて敬う武士の美学

このように、甲陽軍鑑が編纂された時代から、武士は分別を働かせて、目先の出来事に囚われないよう注意を払ってきました。それは、時代が下って武士道が醸成されるようになっても変わりません。分別は、武士の行動原理の基盤と言っても過言ではないのです。

元々は合戦に勝利するという実利に紐づいていたのでしょうが、結果として、様々な可能性を模索し、幅広い視点で物事を判断する精緻な感性を武士に与えたのです。

武士は、感情や気分で物事を判断することはありません。利益のみで判断することも、道徳的な善悪のみで判断することもありません。状況や環境に応じて、「自らの役割を全うする」のに適した言動を採用します。
無論、土台には、仏法や儒学で培った善悪の観念や、自然、神といった形而上的な課題があったわけですが、戦国乱世における武士は、それらに固執することはありませんでした。固執していては、国を守るという責務を果たせなかったからです。

それ故に武士は、定型の価値観や、一方的な物の見方から解放されました。この世界は、二元論的な対立構造ではなく、立ち位置によって様々な解釈が可能な「多様性」を持つということを熟知して、より自由な精神を獲得するに至ったのです。

その思想が顕著に表れているのが、「敵」の側に立った者への態度です。

甲陽軍鑑の中には、敵となった者を賞賛し、敬意を払う様子が散見されます。敵だからと言って無条件に憎むのではなく、それぞれの事情や立場を充分に配慮しながら、同じ人間として評価し、関わろうとしていたのです。

これは、当時の日本に「神仏混淆(神と仏を同等に信仰する思想)」の土壌があったのも、要因の一つかもしれません。ともすれば対立しそうになる二つの要素を、否定せずに両方受け入れる。そこに矛盾を感じない精神が助けとなって、武士道の核に近い部分で、敵への配慮が育まれたのでしょう。

甲陽軍鑑の冒頭、起巻第一には、次のような記述があります。

敵方にても一国を持給ふ侍は、なに大将が大将と申さず、たゞ大将とばかり申物なり。此大将をも口きたなくいふ事、弱将の下にて未練の人々の作法也。

惣別(そうべつ)一国の主をば、敵みかたともに、口にても書付もうやまふて申事也。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(上)(P12)」 新人物往来社

例え敵であろうとも、一国の将にまでなった大将を、口汚く罵ってはならない。敵の大将を軽んじるのは、弱将に率いられる未熟な者たちだけだ(分別ある者は、そのような愚かなことはしない)。

一国の主ほどの人物に対しては、敵も味方も関係なく、話をする時も、書面においても、敬意を表すものである。

このように、例え敵であったとしても、立派な人間に対しては相応の態度で接するのが武士の作法であると述べられています。敵には敵の事情があり、それは自分たちと何一つ変わらない。分別をもって考えれば、画一的に憎む道理はないと分かるからです。

世界を見回せば、敵となった者を徹底的に憎悪し、敗れた国の権力者一族郎党を皆殺しにするような文化もあります。その是非について今は問いませんが、少なくとも日本の武士は、そのような非情を許容することはありません。

甲陽軍鑑には、それを裏付ける記述が多く見受けられます。
本当にたくさんあり、全てを網羅することは出来ませんが、一部を紹介したいと思います。

そしるもけすも無穿鑿の近付衆が分別なき取沙汰より出来(しゆつらい)する。「さなくば」、又よき人の、各ひとつ道理に参るに附、一段中よき物にて候ぞ。近代我等式、身にかけておほく候。

敵「味」方なれ共、越後謙信は信玄(公)をほむる。信玄家においては輝虎をそしらず、ましてそねむ事はなし。近き間のわか手なれども、弓矢たけからんと思へば、家康も信玄をほむるときく。本より信玄公も、若手をやさしく思召、輝虎におとらぬ弓取と家康を誉給ふ。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(上)(P227)」 新人物往来社

人のことを非難したり悪口を言ったりするのは、分別なく、軽率に物事を判断するからである。敵や味方の立場を超えて、賢者は共通する一つの道理に到達しているのだから、通じるところがあるものだ。最近、我々は、身近にそう感じる。

敵味方に分かれていたけれど、越後の上杉謙信は、信玄公を誉めていた。信玄家においてもまた、上杉謙信を非難せず、まして悪口を言うなど有り得ない。

隣国の若手である徳川家康も、武略に優れていると感じたのか、信玄公を誉めたと聞いている。信玄公も、若手だからと侮らず、上杉謙信に劣らぬ強者であると、家康を誉めておられた。

武田信玄公にとって、上杉謙信や徳川家康は敵対する相手です。ですが、それとは別問題で、お互いに優れた部分は認め合っていたということが記されています。

板垣衆跡をしたはんとせし処に、原美濃、敵味方の面へ乗わり、板垣衆をさいはいにて打廻し、いかにも手ばやにつれてもどり給ふ。原美濃五十歳の時なり。よその国にもためしすくなき足軽大将なり。「原美濃」、敵味方にて、大小共にほめぬ者はなかりけり。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(中)(P46)」 新人物往来社

後は、晴信公と太刀(たち)うち仕(し)たるは、村上義清也。出陣の時の広言に少も違はず、つよき大将なり、と近国他国の取沙汰なり。(甲州方にも村上殿を誉奉る。)

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(中)(P49)」 新人物往来社

浜松表を引あげ、刑部(おさかべ)へ御陣かへらるゝとき、高坂弾正しんがり被仰付候に、信玄公人数あつかひを、家康見られて、命ながらへ、信玄のごとく人数をまはし候はゞ、此世の名聞(みょうもん)是に過(すぎ)まじく候、敵とはいひながら、武田法性院を、鴆毒(ちんどく)をもつて殺たくは思はぬと申されたる儀を、生捕の足軽、侍大将衆に申候。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(中)(P332)」 新人物往来社

これらの記述から、当時の武士たちは、例え敵の側に立つ人物であっても、立派なことは立派だと評価していたことが分かります。敗北は許されない極限の状態にありながらも、怨憎に囚われることなく、もっと大きな視点で、俯瞰的に物事を捉えていたのです。

戦国乱世といえど、武士は、好き好んで戦っていたわけではありません。繰り返し紹介させていただいたように、国を守るという目的のため、損を知りながら、やむにやまれず戦ってたというのが実情です。それを想えば、敵の武将といえども同情すべき点は多く、無条件に憎しみをぶつける対象にはなり得ません。

時代が下っても、この「敵に対して畏敬を示す」という武士の精神は、損なわれることなく発揮され、より気高いものへと昇華していきます。

近代では、日露戦争の際、降伏した敵将(ステッセル将軍)を讃え、名誉が保たれるように計らった「乃木希典(のぎ まれすけ)」大将の逸話は有名です。また、先の大東亜戦争においても、駆逐艦「雷」の艦長・「工藤俊作(くどう しゅんさく)」中佐は、海に投げ出された英国海軍400名を、危険を顧みずに救助しました。

それぞれが背負う事情を察して、例え敵であったとしても、同じ人間として心を通わせる。単純な善悪二元論や、自己こそ正しいという傲慢からは、この姿勢は決して生まれないでしょう。敵だからという単純な理由で、侮蔑したり、命を軽視するような無分別者は、武士として認められるわけがないのです。

考え方によっては、敵に情けをかけることは、味方を窮地に陥れる愚行と言えるかもしれません。生き残った敵兵が、後に味方を殺しにくるわけですから、戦闘ということだけを考えれば、敵は殺せる時に殺しておいた方が良いというのも一理あります。無論、場合によっては、そのような武略を用いることもあるでしょう。

ですが武士は、それを充分に知った上で、敵の名誉を守るのです。敵味方を越えて、極限まで人の尊厳を大切にする姿勢は、分別があるからこその英断です。やろうと思えば、降した敵を皆殺しにした上で、その歴史を都合良く捻じ曲げ、名誉を剥奪することも出来ますが、武士は、そのようなことをしないのです。

この姿勢にこそ、血生臭い命のやり取りを経て到達した、分別が咲かせる武士道の精髄があるのではないでしょうか。

様々な考え方があるかと思いますが、間違いないのは、戦国乱世という動乱の時代においても、すでに敵を敬う文化があったという事実です。武士道を学ぶのであれば、ぜひとも知っておいてもらいたいと私は思っています。

境界に身を置いて、武士にとって何が適切かを見極める能力

このように、分別を身に付けた武士たちは、物事に固執することなく、柔軟に対処しました。

武田信玄公に「分別こそ万事の基本であると心得て、朝から夜まで、常に分別を正しくする努力をせよ」とまで言わしめた分別は、武士が武士であるために不可欠な素養であったのです。

もし分別に欠け、一つの思想に固執すれば、武士は国を守ることが出来ません。それどころか、自分たちの考えに沿わないものを、武力で徹底的に排除する危険性さえ孕んでいます。
武士に分別が備わっていなければ、自分たちの正当性を証明するために、異なる意見を持つ者を力で屈服させ、皆殺しにするような文化が生まれていたかもしれません。元々、暴力を生業とする武士は、それを実現するだけの力を持っていました。

ですが、ほとんどの武士は、そのような蛮行を否定します。分別による選択が、それを許さないからです。武士が排他的にならずに済んだのは、分別に寄るところが大きかったのではないでしょうか。

また、分別は、武士が自らに課せられた役割を全うするための道標にもなりました。

以前に、武士の学問や仏法に関する姿勢を、いくつか紹介させていただきました。

⇒(参考)【学問は大切であるが、書物ばかり読んで戦場での手柄が少なければ、少し鈍い武士であると噂されてしまう】

⇒(参考)【武士は、仏法で悟りを得るまで深く修行してはいけない】

など、武士はあくまでも武士であり、その本分を忘れるほど他に傾倒するのは良くないと、甲陽軍鑑では繰り返し述べられています。

詩を作り、哥をよみ、物を知(しる)も、尤(もっとも)也。法度有(ある)もなきも、哥をよまざるも、無学なるも、行儀よくもあしきも、讃(ほむる)も無益(むやく)、誹(そしる)も詮(せん)なし。

兎角(とかく)武士一道ばかりは、一筋に思ひつめ、よの事は、一方へおちつかぬ人間(の法)なれば、二五十、二五七と存ぜよ。又武士の上に、そしるも尤(もっとも)、讃(ほむる)も尤、抑揚褒貶擒縦与奪(よくようほうへんきんじゅうよだつ)の境界なり、と晴信公仰らるゝ。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(中)(P43)」 新人物往来社

意訳してみます。

詩を作り、歌を詠み、学問などを通じて物を知るのは当然のことである。法律を遵守するもしないも、歌を詠まないのも、無学であるのも、行儀が良いのも悪いのも、そのようなことは、わざわざ褒める必要はないし、逆に非難するのも意味がない。

とにかく武士は、武士の道(役割)だけを一筋に突き詰めて、その他のことは、一方へ傾倒しないのが作法なのだから、二五十、二五七と心得よ(「二五十、二五七」は、武田家に伝わる秘伝で、二と五をかけて十、二に五を足して七、という意味)。

武士にとっては、非難するのも当然、褒めるのも当然。抑える・揚げる、褒める・貶す、捕まえる・逃がす、与える・奪う、その境界にあって自在に移り変わるのが武士である。と、晴信公は仰られた。

このように、学問などに通じるのは武士として当然であるけれども、それ以上に、一方に傾くことのない「境界」に身を置くことが大切であると、武田信玄公も仰っています。そして、その境界から状況を見極めて、武士である自分にとって何が適切であるかを判断するのが、他ならぬ分別なのであります。

清濁を併せ呑み、時に極端とも思える武士の言動は、様々な可能性の中から分別によって選び出される智慧の結晶でした。後世の武士道にも継承される、慈悲、忠義、寛容といった徳目も、儒学や仏教からそのまま取り入れられたのではありません。分別を通すことで、武士の職分に最適化された特有の行動様式として生まれ変わり、共有されたのです。

それこそが、後の世に「武士道」と呼ばれるようになる思想の原型になったのだと私は考えています。

古来、人物を評する言葉に「文武両道」というものがあります。武術が一般的な嗜みではなくなった現代においては、武が運動やスポーツに置き換えられていますが、とにかく、学問だけ、武力だけ、というのは片手落ちであり、車の両輪のように補完しあうのが理想であるという考え方です。これに異論を唱える人は少ないでしょう。

ただ、甲陽軍鑑を読み解いていくと、それだけでは不十分であることが分かります。いくら文武を備えていても、分別がなければ、それを充分に生かすことが出来ません。逆に、悪用の可能性すらあります。身に付けた技量を生かすも殺すも、分別次第。人が人として、自らの役割を全うするためには「文武分別の道」が肝要であるというのが、甲陽軍鑑の大きなテーマになっているのです。

武士道の代名詞となっている「死の哲学」も、源流は甲陽軍鑑にある

以上のように、分別は、武士が己の職分を果たすための土台となりました。分別による精緻な武略は、合戦に勝利して国を富ませるために必須でしたし、武士の戦闘者である側面を制御して、治安を維持し、領民からの信頼を得ることにもつながりました。

遠慮を源泉とする分別は、武田信玄公が仰ったように、万事の基本として捉えられたのです。

その姿勢は、己の感情や本能を基準とせずに、あくまでも「武士として」の言動を優先するという思想となって、後の世に伝わっていくことになります。

分別に基づいて物事を判断するというのは、人間としての感情や本能を抑制し、自分自身を「何かを達成するための手段」として用いるのと、ほぼ同じです。分別を効かせて自己を律するほど、人間の原始的な部分は姿を消して、冷静に、淡々と、目的の成就を目指すことになります。

この行動様式は、良くも悪くも武士の支柱となり、強靭な精神を与えました。それが顕著に現れたのが、人間にとって最大のテーマとも言える「死」に対する態度です。武士道という言葉を聞いた時、「死」を連想する人も多いかと思いますが、甲陽軍鑑の舞台となる戦国乱世においても、分別という形で、すでにその原型があったのです。

死は全ての人に平等に訪れる運命ですが、通常であれば、出来るだけ先延ばしにしたい忌避の対象です。戦国乱世の人たちにとっても、それは同じであったことでしょう。

ですが、分別を働かせて武士としての自分と向き合い、遠い未来を慮れば、その当たり前とも思われる本能は超克されます。死は、最優先すべき課題などではなく、自分自身が選び抜いた「武士として価値のある言動」の障害になる程の重要性を持たないことを感得するのです。

それを証明するかのように、武士は、自身の命を投げ打ってでも、目的の達成に邁進しました。時には、自身の命を軽視しているとも思えるほどに、あっさりと死を選ぶこともありました。

「死」よりも重大なこと。
分別を通じてそれを確信しているからこそ、武士は、独自の思想を貫き、課せられた役割を果たすことが出来るのです。

もちろん、生きることを否定しているわけではありません。武士は、命知らずの無分別者ではありませんから、当然、命の大切さは熟知していました。合戦や飢饉により、身近に死を感じていたのであれば尚更でしょう。心の奥底では、やはり死を恐れていたかもしれません。
が、それでもなお武士は、分別によって死よりも大切なことを選別し、実践したのです。

何度も繰り返しになりますが、武士の役割は「国や家族を守り、栄えさせること」です。そしてそれは、武士にとっての最大の名誉である「後世に名を残す」ことに直結していました。
例え命を落としたとしても、家族を守り、後世の人々の記憶に残ることが出来たのなら、それは死と引き換えにするだけの価値があり、迷わず選択すべきだと武士は判断するのです。

分別は、宗教的な戒律、教義、ルールとは異なります。武士の分別は、どれだけ突き詰めても、宗教的な「武士教」になることはありません。あくまでも道、「武士道」です。武田家の武士は学問や仏法に親しんでいましたから、その教えを取り入れることはあったでしょうが、最終的には、武士が自分自身の責任において、心の内なる声に従って判断していました。

自らの分別が、「武士としての道」に適うと決断したのなら、迷うことなく死すら受け入れる。信仰に依らず、俗世の人間のまま根源的な恐怖を克服するという覚悟が、武士の生き方に異様な力強さを与えるのだと、私は感じています。

戦国乱世が終わり江戸時代に入ると、天下泰平となり、合戦のような武力で功を立てる機会は減りました。「武士は大小によらず、武道を心がくる事第一なり」という風潮は希薄になり、武士道も形を変えていきます。

それでも、武士の職分が「武力で国や領民を守る」であることは変わらず、常に武術を磨き、死を意識しておくことが本意とされていました。分別をもって思索した結果、死を通過点にしなくてはならないのであれば、それを受け入れるのが武士の道です。ここには、現代風の「命が何よりも大切」という価値観が入り込む余地はありません。良い悪いではなく、武士の生き方とは、そういうものだからです。

戦国乱世が終わっても、死の哲学として醸成されていく武士道ですが、その源流は甲陽軍鑑の分別にあります。

分別という基盤の上に構築された「自分は何のために生まれ、何をすべきか?」という疑問の答えが、それぞれの人の道となり、支えとなる。甲陽軍鑑に刻まれる美意識を紐解いていくと、武士は無論のこと、人間として自分自身を貫くための手掛かりが、多大なる熱意を伴って押し寄せてきます

だからこそ、人間の一つの理想型とも言える「武士の在り方」を知る絶好の教科書として、甲陽軍鑑は、後の世でも読み継がれていくのです。

「文武分別の道」が、甲陽軍鑑が伝える武士の在り方である

さて、三回に亘って、甲陽軍鑑を紹介させていただきました。あまりにも内容が膨大であるため、極めて限定的な内容となってしまいましたが、武士の思想を知る基本としては、ある程度を網羅出来たと思っています。

まず最初に、厳しい生き方の代表としての「脇差心」を例に、武士社会の秩序について紹介しました。武力で敵を倒すことを生業とする武士だからこそ、刀を抜く際には、相応の覚悟が要求されます。徹底的に武力を突き詰めるからこそ、軽率な言動を避け、結果として平和になるという「人間社会のやむを得ない側面」を知ることが出来ます。

次いで、武田家の武士は武力を磨くだけではなく、学問に触れて人間としての己を高めていたということについて触れました。武士は、単なる戦闘上手では評価されません。礼を知り、慈悲深く、他人と仲良くするための方法を知っているからこそ、人の上に立てたのです。

が、甲陽軍鑑が記されたのは、戦国乱世という動乱の時代でした。人間として正しいこと、悪いこと、様々なものを併せ呑んで国を守らなくてはならないという時代背景があったのです。その現実を前にして、合戦に勝利するために敵を騙すことも戦略として用いられ、「乱取り(らんどり)」のような非情な行為すら許容されていました。

善悪を超えて、国を守り、富ませること。それが、この時代の武士に期待された「役割」であり、それを知らずして、武士の生き方を理解することは出来ません。

そして最後に、今回紹介させていただいた「分別」。個人的には、分別こそが武士道の源流であり、武士が武士として成り立つための最重要事項であると考えています。

学問や宗教的な思想に触れながらも、武士は分別によって、独自の行動様式を得ました。状況に応じて適切に判断し、一つの規範に縛られることなく、課せられた役割を果たす。そのための具体的な能力が分別でありました。

また、分別は、感情や思い込みを排除して、冷静なる判断基準を武士に与えます。例え敵であろうとも素晴らしい者を賞賛することが出来ますし、死を目前にしても自分を失うことはありません。

文、武、そして分別。
それらが一体となった「文武分別の道」が、甲陽軍鑑が教えてくれる武士の在り方であり、後世に続いていく武士道の原型となったのは、間違いありません。

(余談になりますが、現代の日本人にも、この分別の文化が色濃く残っていると感じています。震災が発生した時など、日本人は道徳心が強いなどと報道されますが、実際はそうではなく、分別を効かせて先のことを考える能力に優れているのではないかと、私は感じています。これについては、また別の機会にお話したいと思います)

甲陽軍鑑については今回で一区切りとさせていただきますが、後世の武士道を理解するためにも必須の書物となりますので、機会がありましたら、ぜひ読んでみて下さい。正直、読みやすい書物ではありませんので、内容が掴みにくいかもしれませんが、繰り返し読むうちに、当時の武士の気持ちや生き様が、胸に強く迫ってきます。

それでは、次回からは、天下泰平の世となった、江戸期の武士道を紹介して参ります。
現代人がイメージする武士は、おおよそが江戸期以降の武士道が基盤となっていますので、しっかりと押さえていきましょう。

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