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敗北を徹底的に拒絶し、清濁を併せ呑んで国を守ろうとした『甲陽軍鑑』の武士たち

2016/12/20

前回は、戦国武将・武田信玄公にまつわる『甲陽軍鑑』の中に、後世の武士道の原型があるということをお話しました。

⇒【前回:戦国乱世の武士の在り方を記した『甲陽軍鑑』が、武士道の原型を伝えている】

武田家では、戦闘者たる己を基盤としながらも、天地自然の一部である人間として自己を磨くために学問も奨励されました。「武士であること」を深く洞察し、単なる戦闘上手ではない、立派な武士として振る舞うことを目標としていました

礼儀正しく、慈悲深く。合戦においては修羅の如き働きをする武士も、平時は一人の人間であり、社会的な立ち位置を無視することは出来ません。人間としての「格」を蔑ろにして、戦闘上手であれば何をしても良い、というような考えを持つ者は、武士としては認められなかったのです。合戦に勝利するための能力は当然として、戦闘への姿勢、立ち居振る舞い、風格までもが、武士への評価基準となりました。

現代の日本においても同じです。「結果さえ出せば何をしても良い」というような考え方は、多くの人に受け入れられません。それは、このような武士の精神に影響を受けているからであると感じます。

秩序は乱れ、ともすれば人としての道理を捨ててしまいそうになる、戦国乱世の時代。相次ぐ合戦により常に死と隣り合わせになる状況にあっても、武士たちは、いかにして合戦に勝利するか? という実利の追求と並行して、武士としての自分の在り方を模索していました。

それは、戦乱の世を有利に渡り歩くために生まれた、自然発生的な思想であったのかもしれませんが、いずれにしても、戦闘が本分である戦国時代の武士が、単なる「喧嘩上手」の実利主義に転落することなく、高潔な精神を失わなかったのは、紛れもない事実なのです。
甲陽軍鑑に描かれる武士の言動、すなわち後世の人が「武士道」と呼ぶ思想の萌芽が、それを物語っています。

※画像については、国立国会図書館ウェブサイトより転載させていただいております。また、引用については、主に新人物往来社の「改訂 甲陽軍鑑(磯貝正義・服部奈治則校注)」、汲古書院の「甲陽軍鑑大成(酒井憲二編集)」を参考にさせていただきました。

武士に求められたのは、道徳性よりも、合戦に勝つための強さだった

とはいえ、甲陽軍鑑によって伝えられる武士の思想が、平和主義や、善行の規範であるかと言えば、それは違います。
学問も修め、人としてあるべき姿を追及しているわけですから、武士の思想は、ある面で道徳的にも感じられます。が、この時代の武士にとって、道徳の体現は容易ではありませんでした。いつ何時、平穏が脅かされるか分からない状況で、全てにおいて道徳を優先することなど出来ようはずもありません

現代の価値観においては、争うことは野蛮であり、道徳的ないわゆる「人格者」が高潔な精神の持ち主であると断じられます。が、そのような現代の「常識」を、戦国時代に当てはめるのは乱暴です。時代背景が全く異なるからです。

甲陽軍鑑の時代は戦国乱世であり、他国からの侵略や下剋上を、常に警戒しなくてはなりませんでした。国を守るため、侵略されないために、あらゆる戦略や詭弁を講じて敵国を攻めることも、やむを得なかったのです。ある意味で、それらの行為は、「学問が教える道徳性」とは切り離され、時には拡大解釈を交えながら、現実に即した形で応用されました。

(亦)侍(の)武略仕る時は、虚言を専と用る者なり。それを偽と云は、不案内(あんないをしらざる)(の)武士にて、

(中略)

国を持大将、人の国を奪捕(うばいとり)給ふこと、国に罪はなけれども、武士の道たる故にや。且復(かつまた)其将悪を行へば、それは無道(ぶどう)を討て国を治め民を憐み給ふ事、将の道也。

古今山賊・海賊・強盗とも不申、就(それについて)の虚言を計略と申て不(くるしからざる)「は」道理也。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(上)(P139)」 新人物往来社

これは、品第七にて、武略を用いて敵国を奪う行為に対し言及した件です。意訳しますと、

嘘をついて他者を欺くのは良くない事だが、武士が武略として行う際は、嘘もごく当たり前に用いる。それを悪事だというのであれば、その者は武略を知らない不勉強な武士であろう(武略における嘘と、平時における嘘は区別すべきである)。

(中略)

国を治める大将が、他の国を奪い捕りなさる行為は、その国に罪はないけれど、武士としては当然の道である。他国の将が悪い政治を行っていれば、それを討ち、代わりに正しく国を統治して民衆を慈しむことは、将の道である。

昔も今も、山賊・海賊・強盗ならともかく、武略においては、嘘を計略として用いても良いのは道理だ。

と、戦って国を奪い、国や民衆をより良く導くのは武士の道である。また合戦に勝利するためなら、嘘をついて敵を騙すことも戦略としては何も問題がない、とさえ言い切っています。

兵は詭道なり、という孫子の有名な言葉がありますが、武士は、敵に打ち勝って国を守るという己の責務を全うするためならば、人を騙すことさえ戦略の範疇だったのです。

生死を賭けた勝負に綺麗事はなく、「勝つこと」が何よりも優先されました。無論、勝利を得るために行った方策の是非、風格なども評価基準となりますが、負けてしまっては元も子もありません。元来、武士道とはそういうもので、いざ勝負となれば、卑怯だと思えるような技法も採用します。いつ何時でもクリーンで道徳的であるという印象は、近代に入って作られたものです。

武士は大小によらず、武道を心がくる事第一なり

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(中)(P374)」 新人物往来社

これは、武田信玄公のお言葉ですが、学問でも仏教でもなく、武士は武道(武略を含めた戦いの方法)に通じていることが第一であることが明確に示されています。
武士は、戦う能力があるからこそ武士であり、その力で人々を守ることが本分なのです。いくら学問が重要でも、それを最上位に置いて武術の訓練を軽視する者は、武士ではなかったわけです。

また、武田信玄公は、三十一歳で発心され仏門に入られたのですが、その際、とある高僧が信玄公に伝えたとされる言葉に、次のような一節があります。

参禅なされ候とても、それをば未来の事と思召、武士は愚(おろ)にかへり現在の名利が本にて候。

出家は現世をば捨(すて)に仕(るに)、是さへ名を取たがる者なり。まして「や」俗家(ぞくか)と申せども、中にも侍は誉(ほまれ)を本になさるゝが、家にてあり、愚にかへり、軍配を専(もっぱら)御用候へ。

弓矢は皆魔法にて候故、軍配を御用なければ勝負の儀胡乱に御座候。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(上)(P106)」 新人物往来社

意訳しますと、

仏道の修行をされましても、その成就は、まだまだ先のことだとお思い下さい。武士は世俗に沿って、現在の利益が最重要です。

出家者は現世を捨てているはずですが、そのような者であっても、名誉を望んでしまいがちです。まして、俗家の中でも武士は、利益や名誉を追い求めるのがお家のためであり、世俗に沿って、もっぱら武術や武略を学んで下さい。

戦闘は全て常識を超えた術の応酬でありますから、武略を高めなければ、勝つことは危うくなってしまいます。

このように、武士は精神的な悟りを得ることは後回しにして、現実での利益、即ち隣国との戦に勝つことを第一の目的とすべきだ、といったことが述べられているわけです(あるいは、神仏に帰依するだけでは勝てないということを示唆しているのかもしれません)。この一節だけを見ても、当時の武士が、どのような立場で、どのような働きを期待されていたかが分かります。

武士であるからには、例え仏教や儒学を究めたいと願っていても、それは許されませんでした。ゆえに甲陽軍鑑では、武士の本分はあくまでも「武」であることが繰り返し強調されます。

他にも、次のような逸話があります。

則此和尚の下にて碧岩七の巻まで参禅なされ候。

岐秀御意見にはさんは必御無用たるべし、悟道発明ありて隠遁の心など出来候へばいかゞと被仰故、はさんはなされず候。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(上)(P97)」 新人物往来社

武田信玄公は、岐秀元伯和尚(信玄公の学問の師で、出家の際には「機山信玄」の法名を与えたとされる人物)のもとで「碧岩録」の七巻までを修められた。

が、岐秀和尚はご意見なされた。信玄公は、罷参(修行を最後まで終えること)までなされる必要はありません。仏法の悟りを得てしまい、隠遁の気持ちなど起こってしまっては、武士としていかがなものかと思います。ゆえに、罷参まではなされない方がよろしいかと存じます。

こちらでも、武士は悟りを得る必要はなく、それよりも重要なことがあると念押しされています。

仏道には様々な禁忌(戒律)がありますが、殺生はその最たるものです。また、人のものを奪うことも禁じられています。よって、仏道の修行を深めるほどに合戦を疎むようになり、国を守ることが出来なくなってしまいます。戦国乱世において、仏道の禁忌を侵すことなく国を守るなど不可能だからです。

甲陽軍鑑で繰り返されているように、戦うことが武士の本分であります。武士は、仏教や儒学を学んでも、その精神的な境地を求めることなく、領民の利益、即ち「勝つこと」を追及する義務がありました。周囲も、それを望んでいたのでしょう。

とはいえ、武士が周囲の国と戦い奪い取ることに対して、全く罪の意識がなかったかと言えば、そんなことはありません。普段から自己を律して学問にも精通していた彼らは、戦場では勇猛に振る舞いましたが、平時になれば、慈悲深く、義理に厚い、人としての和を大切にする人格を有していました。

戦闘者である自分と、天地自然の理(道徳)を体現する者としての自分。
その間で、様々な葛藤を抱えながら、それでも「武士として」の自らの役割を果たしていたのです。

武士が戦ったのは、己のためではなく国のためです。私利私欲を離れて、本来ならば「誰もやりたくない」はずの、命を懸けて敵と戦うという役割を引き受けたのです。言い方を変えれば「損をすることを知りながら」、命を賭して戦場を駆けたのです。

或夜又信玄公、各御咄衆へ仰下さるゝ、人間は大小によらず、身をもつ事、一ツあり。旁(かたがた)是に(を)あたりて見よとの御諚候(也)。

各暫(しばらく)有て申上る。何と思案いたしても、更に分別に及ばずと申せば、信玄公そこにて仰出さるゝ、人はたゞ、我したき事をせずして、いやと思ふことを仕るならば、分々躰々、全(まっとう)身を持べし、とのたまふなり。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(中)(P373)」 新人物往来社

これは、武田信玄公の言行録ともいえる「石水寺物語(品第四十・上)」の一節です。

分かりやすく訳してみます。

ある夜に、武田信玄公は御咄衆の人々に「人間は、身分の大小、貴賤に関係なく、その役割を全うする方法が一つある。方々、思い当たることはあるか?」と仰られた。

一同はしばらくして「どう思案しても、まったく思い当たりません」と申したところ、信玄公は、

「人はただ、自分がしたいことをせず、嫌だと思うことを優先して行ったならば、身分や立場に応じて、その身を全うすることが出来るであろう」と、仰られた。

とても含蓄があり、どう解釈するかは人それぞれでありましょう。私利私欲を離れることで、人間本来の善性(仏性や良知)が浮上するといったことを示唆しているようにも思えます。

が、私個人としては、「嫌だと思うことを行う」という部分に、武士の重責を引き受け、それが内包する矛盾や悲しみと向き合った者だけが持つ、達観した境地を感じるのです。

人間誰しも「善い人」でありたい、正義を実践したいという気持ちがあります。武田家の武士のように儒学や仏教に通じているのであれば尚更でしょう。戦場で人を殺したくないし、可能であれば、平穏に生きたいというのが本音だったはずです。

にも関わらず、武士は率先して戦いに赴いた。「国に罪はなけれども」隣国に勝利して、民衆を守ろうとしました。武士は戦闘狂いではありません。自身の信条を曲げ、心を疲弊させてでも国益を優先した。それが真実であったろうと感じます。

戦国乱世の武士は、「合戦に勝利して国を守る」という一面と、「単なる戦闘上手ではない、立派な人間性を追求する」という一面を、何とか両立させようと苦心してきました。そこには、清らかなもの、濁ったもの、相反する二つの性質を併せ呑む気概と分別が要求されました。

その結果、理想のみを追い求める机上の道徳とは一線を画した、現実に即した実践的な道徳である「武士道」が育まれたのです。

無秩序な戦国乱世にあって、許容せざるを得なかった「乱取り」という習俗

以上のように、甲陽軍鑑においては、繰り返し「合戦に勝つこと」の重要性について述べられています。私心を捨てて国を守るために命を賭けて戦う。そのために日頃から己を律し、武術の鍛錬を怠らない。そんな武士たちの勝利への渇望は切実で、鬼気迫るものがあります。

なぜ、戦国乱世の武士たちは、これほどまでに合戦の勝利を願ったのでしょうか。

甲陽軍鑑にも描かれる戦国乱世は、平和な現代社会とは全く違う「常識」が流れていました。なぜ隣国に勝たなければいけないのか、なぜ負けることを避けなければならないのか。
その理由は多様で一概には言えませんが、一つの手掛かりとして、「乱取り(らんどり)」という習俗について触れてみたいと思います。

乱取りは「乱妨取り(らんぼうどり)」ともいわれ、敵地で女性や子どもを生け捕りにしたり、家財道具を持ち去ったりという、戦場における略奪行為のことです。現代の感覚からすると、なかなか理解し難いのですが、戦国乱世においては珍しくありませんでした。その他にも、家屋への「放火(焼き働き)」や、田畑を荒らして作物を奪う「苅田(刈り働き)」も、乱取りと並行して、公然と行われていました。

生け捕りにした女性や子どもは、自国に連れ帰って労働力にすることもありましたが、身代金で買い戻してもらうことが主な目的だったようです。合戦の後、商人によって市場が開かれることもありました。

甲陽軍鑑には、次のような記述があります。

(前略)小幡図書助、おどろきさわぎて、にげおつる。其下のもの共、はうゞゞへにぐるをおしをとし、武田の家のかせもの・小もの・ぶども迄はぎとりて、其上、図書介が居城ニて、次日まで乱どりおほし。

引用元:酒井憲二(編集)(1994).「甲陽軍鑑大成(第1巻)(P67)」 汲古書院

これは、西上野にて、武田信玄公が武略により小幡図書助を攻め落とした際の様子です。戦いに勝利した後、武田軍の悴者(武士に仕える侍)、下人、百姓などが逃げる敵兵を追い立てて金目の物を奪い、さらに次の日まで、城内で乱取りを行ったとあります。

また、宿敵である輝虎(上杉謙信)との戦いにおいても、

(前略)越後へ働、輝虎居城春日山へ、東道六十里近所へ焼詰、濫妨に女童部を取て子細なく帰るなれば、是とても我等にかたをならぶる弓矢とは申がたし。

引用元:磯貝正義・服部奈治則校注(1965).「改訂 甲陽軍鑑(中)(P358)」 新人物往来社

越後に侵入して火を放ち、女性や子どもを連れ帰った様子が描かれています。

戦場で追い剥ぎし、女性や子どもを連れ去るという行為は、現代の感覚からすると、かなりの悪行のように思われます。現代人が想像する、いわゆる「武士道」とは大きくかけ離れておりましょう。

我々の感覚では想像すら難しいですが、これが戦国乱世の戦場の現実でした。このような光景は決して珍しいものではなく、多かれ少なかれ、どの国でも行われていたのです。ひとたび敵国に攻め込まれたならば、田畑を焼かれ、家族を連れ去られるのは必然であり、それゆえに武士たちは必死に戦い、勝利を求めたのです。

家々に火を放ち、村人を追い立てる乱取りの様子
画像:国立国会図書館蔵

ですが、なぜ、このような非道とも思える風習がまかり通っていたのでしょうか。

武田家の武士は、儒学や仏道などの学問、あるいは戦場で直面する悲哀や無常を通じて、人の道を深めていました。その途上で知り得る他者を慈しむことの大切さは、当然の如く心に刻まれていたはずです。家族や身近な者が乱取りの被害者になることを想えば、その悲惨さも熟知していたことでしょう。

それでもなお、武士は、乱取りという風習を許容していました。厳密に言うと、実際に現場で乱取りを行っていたのは、「雑兵」と呼ばれる、村々などから一時的に徴収される兵士たちでしたが、武士たちは、彼らの略奪行為を目にしながらも否定はしていません。

武士が乱取りを許容していた理由は、大きく分けて二つあります。

1.敵国を疲弊させる「武略」としての乱取り

2.国を富ませて、領民を食べさせるための方策としての乱取り

これらが示すように、乱取りは、敵国に対する攻撃すると同時に自国の民を守るという、他に代えられない一石二鳥の戦略でありました。

合戦に敗れるということは、田畑や家屋を焼かれ、家族が敵国へ連れ去られることを意味します。敗北だけは、何が何でも、絶対に避けなくてはならなかった。ゆえに武士は、この効果的な戦略を許容せざるを得なかったのでしょう。

・武略としての乱取り

ではまず、一つ目の「武略としての乱取り」について説明いたします。

戦場で乱取りを行うことによって得られる成果としては、連れ帰った女性や子どもを「働き手」に迎える人員の補充や、金銭で買い戻してもらう「身代金」などがありました。また、敵の兵士から奪った刀装具などの装備品も、売り払えば良い稼ぎになりましたし、次の合戦の備えとして自身で持っておくのも有用でした。

一方で、乱取りによって奪われる側の者、敗者にとってはどうだったでしょうか。

家族を奪われ、取り戻すには、安くない身代金を支払うしかありません。それでも、戻ってくるなら良い方です。場合によっては、いくら金を積んでも取り戻せないこともあったでしょう。大切な人を敵に奪われる無念は、いかばかりか……。

合戦は、敗れた側にとっては生き地獄です。乱取りによって家族や財産を失い、自身の心を支える大切なものを、根こそぎ奪い取られてしまう。戦国乱世、合戦の舞台となった村の人々は、常にそのような恐怖に晒されていたのです。

そして、乱取りとほぼ同時に行われていた「放火(焼き働き)」や、田畑を荒らして作物を奪う「苅田(刈り働き)」も、それに拍車をかけました。放火というのは、文字通り家々に火を放って人々の暮らしを阻害することで、苅田については、田畑を荒らして農作物を奪うことです。

当時、合戦の主力を担っていた「雑兵」と呼ばれる兵士の中には、普段は農民として暮らしている者も少なくありませんでしたから、このようなことが繰り返されては、生活を維持することが出来ません。装備を整えることも難しくなり、合戦どころではなくなります。敵に攻め込まれ続ける弱国の雑兵は、乱取りの恐怖に負けて、敵国に寝返ることも常でした。

実はそれが、乱取り、放火、苅田の「武略としての乱取り」の成果であったのです。
繰り返し攻め、奪い、敵国の力を削ぐ。食糧を奪うことで、いわゆる「兵糧攻め」の効果もありました。いくら強い兵士がいても、食料がなければ戦えません。加えて、その土地に住まう人々の生活を脅かして、自国への敵対心を失わせ、降伏、あるいは裏切りを促したわけです。

このように、乱取りは、敵国を疲弊させ「戦わずして勝つ」ための、れっきとした兵法でした。合戦が起こる前にその根を絶っておけば、結果として、無駄に命を散らせることもなくなります。

甲陽軍鑑においても、「武田信玄公御弓矢かたぎ、十一ケ条之事」の一節に、次のような記述があります。

四、信玄公常に被仰ハ、「弓矢の儀、敵国へ働キ入リ、即時に其所を取しく儀ハ、国もつ大将ノ大キなるあやまりなり。子細ハ、先ズ敵国をくたびらかし候て、おのづから手に入ルやうに仕ハ、愚老が弓矢かたぎ、如此也。」

其敵をつかれしむる三ケ条ハ、
、春ハさなへをこなし、
、夏ハうゑ田をこね、或ハむぎ作をこなし候。
、敵地、民百姓迄の家を焼、其後、命をまつたふ備をよくし、山よせの味方持城ちかき、つうじのよき所を見立、取り手をきづき、番勢を指置、帰陣して、頓而又出陣すべき事。

引用元:酒井憲二(編集)(1994).「甲陽軍鑑大成(第2巻)(P421)」 汲古書院

戦国時代で「弓矢」と言えば、広く武術や兵法などを意味していました。つまり、いきなり敵国へ入って攻めるのは誤りで、まず敵国を弱らせてから自然と手に入るようにせよ、と述べられています。そして、敵国を弱らせる方法として、田畑を荒らして作物を収穫出来ないようにし、民百姓の家々を焼き払い、敵の士気を下げ続けることなどが挙げられています。

このように、戦国時代においては、乱取り(放火、苅田を含む)は立派な武略であり、常套手段でした。

繰り返しになりますが、現代人の感覚に当てはめて考えれば、乱取りは非情な行為と言わざるを得ません。が、同時に、乱取りほど敵国を疲弊させる方法は他になく、勝たなければ地獄という極限状態で戦っていた武士たちは、この効果的な戦略を採用しました。

無論、武士とて乱取りが人間として良くない行為であることを知っていました。知りながら、これを容認していたのです。その覚悟と葛藤は計り知れず、我々現代人の感覚で、単なる悪行と断ずることなど出来ません。

・国(領民)を富ませる方策としての乱取り

乱取りには、もう一つ、自国を富ませるという意味もありました。

戦場に出て乱取りを行い敵国の財産を奪えば、当然ながら、奪った側は潤います。乱取りを重ねる度に、兵士たちは財力や装備を充実させ、それが結果として、国の強化につながりました(繰り返しますが、善悪の観念とは別の話です)。

先に挙げたように、武士は敵を弱らせる戦略として乱取りを活用していましたが、実際に略奪行為を行っていたのは、「雑兵」と呼ばれる兵士たちでした。雑兵は、合戦に参加する兵士の大半を占めており、いわば国が敵と戦う際の主力となった人々です。

雑兵は、農業に従事する「百姓」、足軽などの「侍(下級武士)」、それを手伝って奉公する「下人」等で構成されており、国持大名や、その重臣などの「武士」とは明確に区別されていました。合戦は武士と武士が戦うもの、という印象を持つ方もいらっしゃるかもしれませんが、実は、合戦に参加する兵士の多くは、武士ではなく雑兵と呼ばれる人々だったのです(合戦に参加する兵士のうち、八割は雑兵だったという説もあるくらいです)。

普段は農業などに従事していた彼らは、合戦が始まると、一時的に国に雇われ、命を賭けて戦場を駆け巡りました。武士にとって、雑兵は共に戦場を駆ける同志であり、合戦に勝利するための鍵となる存在でした。彼らの活躍なしに国の勝利はなく、それだけの価値と存在感があったのです。

そこで問題となってくるのが、武士が雑兵を雇う際の報酬です。合戦の気配が高まると、武士は彼らを徴収しましたが、むりやり戦場に送り込むわけにはいきません。命を賭けて戦うのですから当然です。少しの油断で、首が飛ぶのです。そのような戦場で兵員として働いてもらうには、相応の見返りが必要です。

ですが、戦国乱世は、どの国も軍備を整えたり、隣国との関係を保ったりするために、多くの金品を必要としました。それゆえ、雑兵たちに充分な報酬を支払う財政の余裕はなかったのです。もし、雑兵への報酬を無理にでも増やすとなれば、国の力を落とすことになります。これは愚策です。一方、雑兵たちも、家族を養っていくためには、何らかの方法で食料や金品を手に入れなくてはなりません。

もうお分かりかと思いますが、つまり、そのような財政難の状況の中で、雑兵たちに金品を与え、戦場への意欲を高めるための方法として、乱取りが容認されていたのです。武士が信仰していた仏教や神道からすれば、他者の金品を奪い、女や子どもを連れ去るなど、許されざる悪行であったわけですが、自国の領民を生き長らえさせ、同時に、兵士の士気を高めるためには、乱取りを採用する以外に方法がなかったのです。

分捕の刀・脇差・目貫・こうがい・はゞきをはづし、宣見廻なる。馬・女など乱取につかみ、是にても宜成故、御持の国々民百姓迄、悉ク富貴して、いさみあんたいなれば、さハぐべき様、少もなし。

引用元:酒井憲二(編集)(1994).「甲陽軍鑑大成(第2巻)(P459)」 汲古書院

これは、当時の乱取りの様子を示した一節です。
戦場で手に入れた刀や脇差で、兵士の装備はどんどん充実していく。さらに、馬や女性を売り払うことによって金銭的にも潤い、国は富み、領民たちも文句を言うことなく国は安泰だ、とそんな記述です。

奪われる側からすると、気が狂いそうな程に腹立たしい言い分でありましょう。が、他に生活の糧を得る手段がない雑兵にとっては、合戦の勝利は「とても儲かる」実入りの良い仕事だったということです。乱取りが許されていたからこそ、戦場に命を賭けて戦う価値が生まれたわけで、もし乱取りが許されていなければ、合戦に赴く意欲も薄く、兵士からは絶えず不満の声が上がっていたことでしょう。

本来ならば避けるべきだが、やむにやまれず許容していた、というのが武士たちの偽らざる心境であったろうと感じます。

また、もう一つ、戦国の世で乱取りが常態化していた大きな理由があります。
それは、「慢性的な食糧難を回避する」という切実な事情です。

「武士が名を上げるために戦う」という英雄的志向の印象が強い戦国乱世ですが、実は「慢性化する飢饉による食糧難の時代」という側面があり、民衆にとっては、合戦以上に生死を左右する大問題でした。現代の日本のように、安定して食料を得られるという保証はなく、いつもすぐ隣に食糧難の危機があったのです。

食べるものがなく、常に飢えに苦しんでいた領民たちは、何らかの方法で食料を手に入れなければ、生きていくことが出来ませんでした。田畑を耕し、自給自足で食料を確保していた農民も、悪天候によって収穫が少ない時期は、「飢え死に」を覚悟しなくてはなりません。

そこで、「手元になければ、別のところから持ってくる」つまり、敵国から奪うという発想が現実味を帯びてきます。実際、敵の城を落として占領することではなく、食糧の確保を主目的に合戦が行われたこともあるようです。季節で言えば秋冬、稲の収穫の時期に合わせて戦が行われたという記録も残っており、戦場は、この時代に暮らした人々が、様々な形で「生き抜くこと」を託した、希望そのものだったのす。

乱取りによる成果が、どれだけ歓迎されていたかは、次の一節によっても分かります。

御出陣有て、跡のさハがざる儀、三ケ条ハ、

(中略)

、御持の国の新衆を付出し、弐三千も召連られ、其々に頭を付られ候へば、此新衆共、分捕・乱取仕り、己が村里へ越、親・妻子・兄弟にくれ候故、いさみこそ仕り候へ、さだつ事少モなし。

引用元:酒井憲二(編集)(1994).「甲陽軍鑑大成(第2巻)(P459)」 汲古書院

合戦が起こり、雑兵として徴収されたとしても、乱取りで入手した金品、あるいは食料を家族に渡していたため、誰も文句など言わない。むしろ、喜んで戦場に出たがるくらいだ。と、そんな意味です。

無論、これは武田家の武士の側の言い分であり、実際に全ての雑兵が合戦を望んでいたかは分かりません。大切な家族を、死と隣り合わせの戦場などに送り出すなど、望まなかった人もいたはずです。

ですが、戦国時代に乱取りが頻発していたのは事実であり、このような記録が残っているくらいですから、全くの虚偽ということはないでしょう。乱取りによる収益は、少なからず、貧困にあえぐ人々の支えになっていたのだと考えられます。

乱取りは、思慮分別の果てに生まれた、やむにやまれぬ国策だった

以上、乱取りについて述べさせていただきましたが、この部分だけを取り出して見れば、戦国乱世とは、まさに無秩序で、非道がまかり通っていた混沌の時代であると思われてしまうかもしれません。

無論、人と人が殺し合う状況が常であったわけですから、混沌としていたのでは間違いないでしょう。食糧難や強奪の恐怖に晒され、日々の生活がままならない状態では、人としての正しい道を模索するどころではありません。

ただ、取り違えてはいけないのは、甲陽軍鑑に描かれる武略や乱取りは、あくまでも「合戦(戦争)」状態の中でのみ許容されたものであり、平時においては、人を殺すことはおろか、奪うことも当然の如く犯罪行為であったという事実です。甲陽軍鑑においても、訴訟(公事)で数々の犯罪が裁かれていた様子が描かれていますし、品第一で記される「甲州法度」では、いかに秩序を重んじて国を運営していたかを伺い知ることが出来ます。

何もかもが一緒くたではなく、「ここまでは良いが、ここからは駄目である」という思慮分別が存在し、必要以上に他者を苦しめないように、という姿勢を崩すことはなかったはずです。乱取りという無秩序と思える行為の中にも、秩序は存在していたのです。

儒学、仏教、神道などに通じていた武士たちにとって、仁や慈悲の徳目は、勇猛さと並んで最重視されるべきものでした。そのような精神的土台を持つ武士たちが、無分別の非道を許すわけがありません。

人の国を奪い捕り給うこと、国に罪はなけれども、武士の道たる故にや。山賊・海賊・強盗の所業にあらず。

乱取りは、戦国乱世という過酷な状況を乗り切るために、武士が覚悟をもって採用した戦略の一つであり、国策でもありました。敵を退けて自国を守るという重責を全うするために、清濁を併せ呑み、ぎりぎりのところで定められた秩序であることを忘れてはいけません。

戦国時代の武士は、戦闘を通じて国に奉仕する者であり、僧侶や学者ではなかったのです。乱取りに対する立ち位置が、武士という存在を知る良い手掛かりとなります。ここに、後世に連なる「武士道」の枢要があると、私は考えています。

甲陽軍鑑が伝える武士道の根底には、善悪を超えた、強烈で切ない渇望が鎮座している

今回は、甲陽軍鑑の中でも、戦闘に対する武士の姿勢、戦国乱世の切ない側面である乱取りについて、紹介させていただきました。

あなたは、どのように思われましたか?

平和な現代人の感覚からすれば、執念とも思える武士の勝利への渇望は、理解し難いかもしれません。他者の金品を奪い、女・子どもを連れ去る乱取りなどという行為は、モラルに反した悪行であると断じられましょう。確かに、その感覚は正しいと思います。人間として、他者を虐げて自己の利益を追い求めるのは罪であり、出来る限り避けるべきだと私も信じています。

が、戦国時代において、合戦の敗北は、家々を焼かれ、家族を連れ去られることと同義でした。人としての正しさのみを追い求めれば、国は滅び、家族を見捨てることになります。一巻の終わりだったのです。
また、当時の日本全体を覆っていた、飢饉による「食糧難」という事情も忘れるわけにはいきません。人々は、生き延びるために、何らかの手段で食料を確保しなくてはなりませんでした。

このような時代背景を抜きにして、戦国時代の武士を理解することは出来ません。また、甲陽軍鑑に多大なる影響を受けた、江戸時代以降の武士道においても同じです。あるいは、ここでは詳しく触れませんが、先の大戦に当てはめて考えてみても、新たな発見があるやもしれません。戦国乱世の武士と同じく、日本は私利私欲のみで大東亜戦争を戦っていたのではないのです。

守るべきものを守るために、武士は、善悪を超えて、ぎりぎりのところで己に課せられた役割を全うする存在です。残酷だったわけでも、現代人と比較して劣っていたわけでもありません。
日本の歴史の中で、最も混乱し、荒廃していた戦国時代に書かれた甲陽軍鑑だからこそ、現実と向き合いながら理想を求め続けた武士の精神が、より輝いて見えます。

次回は、今回紹介した時代背景を踏まえつつ、武田家の武士が大切にしてきた価値観に迫ってみます。慈悲、忠義、寛容といった、後世の武士道にも継承される徳目の原点が、甲陽軍鑑には描かれています。

長く続いている甲陽軍鑑の紹介ですが、次回で一区切りとなる予定です。今しばらくお付き合いいただけると幸いです。

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