新渡戸稲造の著書『武士道』は、武士の行動規範を下地にした、新興の道徳思想である
前回は、武士道にも様々あり、その理由として「武士が規範とする言動が、時代によって違いすぎている」という例を挙げさせていただきました。
⇒【前回:武士道とは何なのか? 時代によって全く違う武士の性質】
武士道には、お釈迦様の教えを記した仏教の経典や、儒学の根本である四書五経もありません。
そのほとんどが、有力な武士が残した口伝のようなものであり、それもまた、武士道を誤解する原因になっています。
「武辺咄聞書」「常山紀談」など、多くの武士に読まれた書物がありますが、これらは過去の武士の言動を集めたもので、体系立てて、理想的な武士の姿を定義するような内容ではありません。
江戸時代には、大道寺友山の「武道初心集」、斎藤拙堂の「士道要論」など、武士の在り方を指し示す著作も出てきますが、当然のように個人の思想が反映されておりますし、口伝の範疇であるかと思います。
世の中に武士道は存在しても、武士道という体系的な教えは存在しないのです。教科書のようなものはありません。
そして、現代の人が武士道と聞いて思い浮かべる道徳的規範が、明治時代に新渡戸稲造によって英語で著された『武士道(Bushido,Soul of Japan)』に多大な影響を受けているであろうことは、とても重要なことです。
この書物も、著者である新渡戸稲造の思想が強く現れているわけですが、あまりにも有名で影響力が大きいため、武士道とは、この書物に書かれている「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」の徳が全てであると認識している方も少なくないようです。
1.武士道=新渡戸稲造の著書の名前
2.武士道=武士としての理想的な在り方を指し示す言葉
この二つが混在しているのが、武士道の理解を妨げる大きな要因となっているのです。
武士道について触れるとき、この二つを切り分けるだけでも、随分と理解が変わってくるはずです。
新渡戸稲造によって著された『武士道(Bushido,Soul of Japan)』は紛れもなく名著です。格調高く、世界に与えたインパクトはとてつもなく大きい。それだけに、内容と共に、その成立の背景を知っておくことは、武士道を理解するためにも有益です。
世界に向けて発信された、新渡戸稲造『武士道(Bushido,Soul of Japan)』の特徴
江戸の平和な時代、武士たちは、自分たちの存在意義を純粋な戦闘以外の部分に求めました。また、幕府の方針によって、武力のみに頼るのではなく、徳によって物事に対処する「徳治主義」が、武士の間に浸透してきました。
この流れによって、道徳的な精神を宿し、また、忠義を貫く儒教的な生き方を実践して人々の規範になることが、武士の存在意義と見なされるようになったのです。
そして、その性質を外国人に受け入れやすいようにアレンジして、武士の倫理観が、日本人が持つ道徳性の基盤になっていると世界に発信したのが、新渡戸稲造であります。
彼の著作『武士道』を読まれた方の多くは、その分かりやすさ、詩的な美しさに感動を覚えるのではないでしょうか。
私自身、何度読んでも心惹かれます。この記事を書く際、『武士道』を読み返しましたが(主として、岩波書店の矢内原忠雄氏の日本語訳版)、改めて素晴らしいと思いました。
この著書から多くを学び、行動の規範としている方もいらっしゃるでしょう。
特徴としては、
1.武士の道徳的側面を強調し、理路整然と、分かりやすく「体系化」して紹介した
2.キリスト教の思想が根底にあり、武士の道徳をそれに比較する論調で展開されている
3.最初に英語で出版され、西洋人を強く意識して内容が練られている(日本人に向けて書かれたものではない)
などが挙げられます。
これらの特徴は、この書物が果たした大きな功績であると同時に、誤解を招いて非難の的になる対象でもあります。
掘り下げると奥が深いのですが、私個人の考えを、少しお話してみます。
武士の美しい部分のみを体系的に紹介し、泥臭さや狂気にはあえて触れていない
まず1の「武士の道徳的側面を強調、体系化して紹介した」という点ですが、新渡戸稲造は、武士の泥臭い面や狂気的な部分に出来るだけ触れないようにして、この本を書いています。
本来、武士というのは戦闘者です。道徳的な精神を宿してはいても、「世の中から争いはなくならない」という事実から目を背けずに修練を重ねる人たちです。
それだけに、綺麗事では済まされないことがあります。嫌でも刀を抜かなければならないことがあるでしょうし、守るべきものを守るために、卑怯な手段を用いて勝利を得ることもあるやもしれません。
そもそも、古武士の時代は、戦闘を職業とする者を武士と呼んでいたのですから、道徳は武士の全てではなく、ほんの一部にすぎません。
が、新渡戸稲造は、そのような事例には触れず、一貫して「武士道の道徳的な側面」のみを美しく、詩的に綴っています。意図的にそうしたのだと思われます。何せ第一章の表題が「道徳(倫理)体系としての武士道(Bushido as an Ethical System)」です。
また、第十三章には、以下のような記述があります。
「負くるは勝」という俚諺(りげん)があるが、これは真の勝利は暴敵に抵抗せざることに存するを意味したものである。「血を流さずして勝つをもって最上の勝利とす」。その他にも同趣旨の諺(ことわざ)があるが、これらはいずれも武士道の窮極の理想は結局平和であったことを示している。
この高き理想が専ら僧侶および道徳家の講釈に委ねられ、武士は武芸の練習および賞賛を旨としたのは、大いに惜しむべきことであった。引用元:新渡戸稲造著・矢内原忠雄訳(1938).「武士道(P125)」 岩波書店
この一節も、その意図は理解出来ますが、少々雑な論理です。また、武芸あっての平和、武芸あっての精神の醸成、と考えている武術者の立場からは、武芸の稽古を否定する姿勢には、首を傾げるところです。
が、この本には明確な目的があり、それを実現するために、武士の野蛮な側面ではなく、美しい部分のみを世界に発信することを、あえて選んだのでしょう。本来の武士道と違っているという批判は覚悟の上で。時代背景や彼の立場などを考えれば、それはそれで納得がいくものです。
そして、その独自に選別した道徳的な側面を、実に分かりやすく、体系的に紹介しているのも、この本の大きな特徴です。
それまでの武士道に関する書物のほとんどは、口伝を記したものか、一部の有力な武士や儒者が持論を展開するといったものでした。
新渡戸稲造の『武士道』は、それを踏襲しつつも、「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」など、徳目ごとに整理して武士の行動規範を紹介し、実に分かりやすく体系化しています。その小気味好く、洗練された構成は、それまでの武士道書と比べても希少です。この構成力と、読みやすさが、新渡戸稲造の個人的な持論であったはずの思想に、まるで武士の入門書であるかのような説得力を与えているのでしょう。
キリスト教徒としての目線、解釈からの武士道論である
次に、2の「キリスト教の思想が根底にある」という点ですが、これは、『武士道』を一読すればすぐに分かります。
元々、海外に向けて理解を得られるよう、ニーチェ、プラトン、シェイクスピアなど、西洋の人にとって馴染みのある人物名が頻繁に出てくるのですが、それとは別の次元で、キリスト教の思想が引用され、武士道との比較が行われています。
その意図は、果たして何だったのでしょうか。
西洋の人に理解してもらいやすいように、身近な道徳律であるキリスト教の例を多用したのでしょうか。
それとも、キリスト教の精神が最上であるという前提で、それに追随する思想として武士道の価値を引き上げようとしたのでしょうか。
あるいは、武士道が作った道徳の土壌が、キリスト教を布教するのに適していると、内外に知らしめたかったのでしょうか。
この辺りの解釈が難しく、この書物への評価が分かれる部分でもあります。
確かに、「世界に数多ある宗教、精神的思想の境地は、上の段階へ行くほど同じになって類似する」と、そんな論もあります。新渡戸稲造は、自身が信仰しているキリスト教の境地と、武士道の境地が同じであることに喜びと誇らしさを覚えて、引き合いに出したのかもしれません。
第二章の本文中に、多くの武士が学んだ陽明学の思想が、キリスト教(新約聖書)のそれと似ているという記述もあります。
西洋の読者は、王陽明の著述の中に『新約聖書』との類似点の多いことを容易に見いだすであろう。特殊なる用語上の差異さえ認めれば、「まず神の国と神の義とを求めよ、さらばすべてこれらの物は汝らに加えらるべし」という言は、王陽明のほとんどいずれのページにも見いだされうる思想である。
引用元:新渡戸稲造著・矢内原忠雄訳(1938).「武士道(P38)」 岩波書店
キリスト教との比較をどう解釈するにしても、新渡戸稲造が、敬虔なキリスト教徒だったことは事実です。
「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士が教鞭を振るっていた札幌農学校(現在の北海道大学の前身)に入学し、その布教の流れでキリスト教を信仰するようになったそうです(クラーク博士は、学生に聖書を配ったり、熱心にキリスト教を講じていました)。
新渡戸稲造は、クエーカーと呼ばれるキリスト友会に所属していました。
キリスト友会について私は詳しいわけではないのですが、「内なる光」として、心の声、良心を重視するという姿勢は、確かに、陽明学の「心即理」や「至良知」に通じるものがあります。武術の修行においても、心の奥から湧き上がる良心を体感する人は少なくありません。
彼が、キリスト教と武士道に親和性を見出したのは、きっと、その辺りにもあるのでしょう。
ちなみに、彼と同期の内村鑑三も、「武士道と基督教」という本を出しています。こちらは更に直接的で「武士道の道徳にキリスト教を足したものが、世界で最高の産物である。それには、全世界を救う力がある」とまで述べています。
明治時代、キリスト教徒である人々が武士道の価値を見出し、折衷して世に広げた影響は、とてつもなく大きかった。良くも悪くも、武士の狂気を排除して、道徳に特化したその流れが、現在の武士道を形作っているのは間違いないのです。
ただそれゆえに、どこまで行っても「明治になって出てきた武士道は、本来の武士道ではない」という非難が付きまとうわけですが、新興の道徳思想として捉えれば、非常に素晴らしいものであると私は思っています。
日本に対する誤解やネガティブな印象を、武士道で払拭しようとした
では最後、3の「最初に英語で出版され、西洋人を強く意識している」という点について。
これが、それまでの武士道書とは大きく異なっている部分であり、新渡戸稲造の『武士道』の価値を探るために、とても重要なポイントとなります。
初版が1900年(明治33年)にフィラデルフィアで出版され、日本国内よりも先に、西洋に広まっていきました(日本語訳が出版されたのは、初版から八年後)。
セオドア・ルーズベルトやエジソンも愛読していた程ですから、その影響力は推して知るべしです。
無論、日本人に読まれることも想定の内だったでしょうが、本命が西洋人だったのは明らかです。この書物は、英語で書かれたという点以外においても、海外に向けて日本を紹介するという意図があり、その狙いに沿って構成されています。
なぜ、彼は西洋に向けて武士道を紹介しようとしたのでしょうか?
その理由は、本が出版された1900年前後の時代背景を見ていけば、おぼろげに浮かんできます。
明治維新によって海外に開かれた日本は、西洋文明を積極的に取り入れながら、経済力・軍事力などを強化していきました。いわゆる富国強兵の時代です。
1867年 大政奉還の成立。王政復古の大号令。
1868年 神戸事件、堺事件が起こる。
1876年 廃刀令の公布。
1890年 府県制の公布。教育勅語発布される。
1894年 日清戦争の開始。
1895年 日清講和条約の締結。三国干渉による列強の介入。
1900年 新渡戸稲造が、アメリカのフィラデルフィアの出版社から『武士道(Bushido,Soul of Japan)』を刊行。
1904年 日露戦争の開始。
1905年 日本海海戦において、バルチック艦隊に勝利。ポーツマス条約により終戦。
この中で特に象徴的なのは、武士の不可思議さ、苛烈な側面を世界に知らしめた神戸事件・堺事件と、アジアの小国でしかなかった日本が西欧列強と肩を並べる契機となった日清戦争でありましょう。
神戸事件・堺事件については、ご存じない方もいらっしゃると思いますので、簡単に紹介します。
神戸事件
1868年(明治元年)の1月、明治新政府により、摂津西宮(現在の西宮市)の警備を命じられた備前藩は、藩士を率いて西宮に向かっていた。
備前藩士の行列が、神戸三宮神社近くに差しかかったその時、フランス水兵2人が行列に割り入って横切ろうとした。それに気づいた藩士・滝善三郎は制止するが、言葉が通じず、フランス水兵は強引に横切ろうとする。やむをえず、滝は槍で攻撃を加え、フランス水兵を負傷させる。
武士の文化において、行列を横切る行為は「供割(ともわり)」と呼ばれる無礼な行為であり、制止するのは当然のことであったが、フランス水兵は、それを知らない。
やがて、水兵数人が拳銃を取り出し、銃撃戦に。その影響で、近くにいた欧米諸国の公使たちが巻き込まれたり(公使たちに怪我はなかった)、駆けつけたイギリス公使にまで発砲したりと、被害が拡大する。
神戸に領事館を持っていた列強各国は、居留地防衛の名目で、神戸の街を占領。港に停泊する日本の船も抑留される。
対外関係の悪化を恐れた明治政府は、各国に陳謝しつつ交渉し、最終的には、発砲責任者の滝を切腹させることで事件を解決した。
堺事件
1868年(明治元年)の2月、フランス海軍の水兵が、開港場でない堺に上陸し、市内を物見遊山していた。特に目立った悪事はしていないが、人家に勝手に上がり込んだり、女性をからかったり程度はしていたそうである。
当時、堺を守備していた土佐藩士たちは、上陸の許可もなく住民に迷惑をかけるフランス水兵を諭し、軍艦に帰そうとした。が、言葉が通じず、手真似で帰れと示しても帰る様子がない。仕方がないので、土佐藩士は捕縛して収めようとするも、フランス水兵は逃亡。土佐藩の隊旗を奪って逃げる者もいた。
フランス水兵は逃げる。土佐藩士は捕まえようとする。そのような流れから、ついには銃撃戦が始まり、フランス水兵11名が殺害された(先に手を出したのがフランス水兵か、土佐藩士か、という点については諸説ある)。
当然、この事件は外交問題となり、交渉の末、明治政府はフランス側の要求を飲むことになる。主たる内容は、多額の賠償金の支払い、責任者および発砲した藩士の処刑であった。明治政府は、戊辰戦争で消耗しており、外国と戦うことは何としても避けなくてはならなかったため、やむなく受け入れたのである。
土佐藩は、指揮官4名を含む、合計20名を事件に関わった者として選別し、切腹を命じた。指揮官以外の16名は、くじ引きによって決められた。土佐藩士たちは、開港地でない堺に上陸したフランス側に非があることを主張しつつも、お国のために、腹を斬ることに納得する。
そして、堺の妙国寺にて、諸藩の要人、フランス公使のレオン・ロッシュ等が立ち会う中、切腹が始まる。
一人目の箕浦猪之吉が呼び出され、切腹の座につく。介錯人の馬場桃太郎が背後に立つ。
右手に短刀を取った箕浦は、「フランス人共よ、よく聞け! 俺はお前らのためには死なぬ! 皇国のために死ぬるのだ! 日本男児の割腹をよく見ておけ!」と叫んだ。いなや、短刀を逆手に取り、左の脇腹に突き立てて三寸切り下げ、それをさらに右に引き、また三寸ほど斬り上げた。
大きく切り開いた腹からは、激しく血が噴き出す。箕浦は、その腹の中に手を差し入れ、自らの腸を引きずり出し、ロッシュらを睨み付けて投げつけようとする。
介錯人の馬場は、首に向けて刀を振り下ろすが、浅かった。
「どうされたか。心静かに」と箕浦は声をかける。
馬場は、更に刀を振り下ろす。今度は、首の骨を断ち斬って、首が前へ傾くが、まだ首は落ちない。
「まだ死なんぞ! もっと! もっと斬れ!」と、今までのより大きな声で叫ぶ。
三回目の太刀で首が落ちたが、箕浦を様子を始終見ていたロッシュは顔色が悪くなり、座っておれずに立ち上がるほど狼狽する。
次の西村佐平次は滞りなく腹を切るが、介錯人が慌ててしまい、腹を切り終えないうちに刀を振り下ろし、首は5メートルほど飛んでいった。
その後も、首を七回斬られてようやく落ちた大石甚吉、左から右に切り裂いた後にさらに左へ引き戻して腸があふれ出した柳瀬常七など、凄まじい光景が続いた。
こうして11人目まで切腹が終えた時、公使ロッシュは何か一言発し、挨拶もせずに外へ出ていった。寺の門を出るや、走って港へ帰っていく。
残りの9人も切腹がしたいと申し出たが、立ち会うべきフランス人がいないところで腹を切らせるわけがいかない。結局、切腹は中止となり、9人の命は助かった。
この事件は海外にも広く紹介され、武士の凄まじさ、切腹という文化の異様さを知らしめたのである。
少し長くなりましたが、以上が事件の概要となります。
あなたは、これらの事件を知り、どのように思われたでしょうか?
大きく印象に残るのは、切腹という文化。そして、それを行う武士の存在ではないでしょうか。特に、堺事件の切腹の様子は、あまりにも衝撃的です。
この時代、日本は、まだ海外にはあまり知られていない弱小国でした。もっと言えば、未開の野蛮人、劣等民族だと思われていました。そんな時にこのような事件が紹介されたのです。多くの西洋人が、武士という存在に興味を持ったことでしょう。実際、これらの事件を契機として、切腹(ハラキリ)は世界に知れ渡ったのです。
日本には、武士という異様な人間がいる。刀で人を殺し、また自分の腹を切って死ぬ、訳の分からない連中だ。そんな印象だったかもしれません。
日本の政治家にとって、このような状況は歓迎すべきものではなかったことでしょう。外交を通じて、少しでも日本を理解してもらい、列強の仲間入りをしなければならないのに、「粗野で乱暴、殺伐としている」といった武士のイメージが海外に広まっては、逆効果です。
そして、日清戦争が起こります。
この戦争によって、世界の覇権を争っていた列強と言われる国々も、日本に一目を置かざるを得なくなりました。
日清戦争
1894年(明治27年)から翌年にかけて行われた、日本と清(中国)との戦争。
その頃、強大な軍事力を持つロシアが東アジアに進出してきており、また、東南アジアを植民地にしてきた欧米の国々が北上してきたため、両国に挟み込まれる位置にあった日本は、自衛を考えなければならなくなった。
アジアの中で、日本と一部の島々以外は、全て植民地にされていた、弱肉強食の時代だった。
自衛するには、朝鮮半島をロシアに支配されないようにすることが重要だと考えた明治政府は(開国当初から、中国や朝鮮と協力してアジアを強くし、欧米やロシアの脅威を防ぐことが理想であると日本は考えていた)、朝鮮の国力強化を目指して協力関係を構築しようとするが失敗。
朝鮮半島がロシアに支配されては、日本も危なくなる。そのため、やむを得ず、日本は朝鮮進出を決意する。
しかし、朝鮮を属国としていた清は、当然これを許さず戦争に突入。
当時、清は「眠れる獅子」と言われ、欧米各国も容易に手を出せないでいた程だったが、日本は約8カ月ほどで戦争に勝利する。
日本は、朝鮮の独立などを盛り込んだ下関条約を清と結び、欧米諸国やロシアに対抗する足掛かりを得た。
西欧列強の植民地支配からの自存自衛、アジア解放の前哨戦となった一戦であった。
それまでは、辺境の小国程度に思われていた日本ですが、ここに来て、急激に存在感を強めることになります。なにせ、世界の覇権争いの一角を担っていた清を、ほぼ無名の弱小国が打ち破ったのですから。
日本とは、一体どういう国なのか?
あいつらの強さの秘密は何なのだろうか?
武士という人種がいて、切腹と言う凄まじい自殺があるみたいだが、どういう連中なのか?
そのような疑問を持つ人も、少なくなかったことでしょう。
新渡戸稲造が『武士道』を出版したのは、このような時代だったのです。
日本に対する世界各国の注目が集まってはいるものの、まだまだ日本は誤解されている。未だに、武士の野蛮で殺伐としたイメージが残っているし、欧米列強と肩を並べられる文化的な国であることも伝わっていない。彼には、そんな思いがあったのではないでしょうか。
新渡戸稲造の有名な言葉に、「我、太平洋の橋とならん」があります。日本の文化を西洋に伝えるという、強い意志。その気概を発揮して、日本が誇るべき精神世界を西洋に紹介するためにこそ、『武士道(Bushido,Soul of Japan)』は英語で出版されたのです。
この書物の記述には、武士の実態を正確に示していない部分もあります。それは、多くの人が指摘していますし、私もそう感じます。が、それでも良いのです。新渡戸稲造の狙いは、日本人に対して正しく武士を紹介することではなく、方便を交えながら、西洋人に対して日本の素晴らしい文化を紹介することだったのです。
私個人としては、武士道を志す人に対して、この書物を強く奨めることはありません。二元論の正義感が気になるし、武士という人間を知るためには、あまりにも美し過ぎるからです。「清濁併呑」の多様性が武士の良さですが、濁の部分が、ごっそり抜け落ちています。
が、それでも、当時の時代背景を考え、なぜ新渡戸稲造という人が、わざわざ英語で武士を紹介する本を出版したのかという理由に想いを馳せると、とても感動するのです。強い信念がなければ実現できない偉業です。
実際、この『武士道』によって日本のネガティブな印象は改善され、世界に良い印象を与えたのは、動かしようのない事実です。影響力が大きいため、良くない部分や弊害も指摘されていますが、それによって、この書物の功績が失われることはないでしょう。
武士の入門書としての価値よりも、歴史的な功績と、道徳書としての価値を考えたい
以上、駆け足で新渡戸稲造の『武士道(Bushido,Soul of Japan)』を紹介しました。
最初に述べさせていただいたように、現代人が武士道という言葉を耳にしたとき、この書物の内容を思い出すことが多いようです。
ですが、この書物が、「武士の理想的な在り方」であるところの武士道を正しく表現しているかと言えば、必ずしもそうではありません。
繰り返しになりますが、この『武士道』の内容は、あまりにも美しすぎるし、道徳に寄りすぎています。極端な善性に偏っているようにも思えます。それは本来の武士道ではありません。武士の生き様は、単純な善悪、二元論的な価値観では計れないのです。
話が飛躍するかもしれませんが、現代の日本人が政治家に清廉潔白な人格を求め過ぎたり、道を誤った者を徹底的に叩くのも、この書物が示した正義の影響が少なくないのでは……と私は感じています。
また、新渡戸稲造という人物が、生涯を通じて日本の国益に沿った行動を取っておられたか、という部分についても、意見が分かれるところでしょう。
とはいえ、体系的に示された道徳観には学ぶべきところが多いですし、素晴らしい思想であることには違いありません。紛れもない名著です。「武士道(Bushido)」を世界の共通語にしたのも、この書物です。
何より、激動の時代の中で、西洋の人々が日本に抱いていた疑念や誤解を改め、独自の文化の価値を世界に認めさせた功績は、もっと世に認められても良いのではないでしょうか。
本来の武士道とは異なっている部分がある、という点にさえ気を付ければ、武士道を知るためにも有益です。
さて、かなり長くなってしまいましたが、新渡戸稲造の武士道については、ここまでにいたします。
次回は、新渡戸武士道とは違う武士道の流れ、現存する武士道の本流とも言うべき、名将・武田信玄に連なる「甲陽軍鑑」について、触れてみたいと思います。