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生きる目的とは何だろうか

2015/10/14

若かりし頃、私が武術を始める根本の原因は何だったかと振り返れば、まず最初に「なぜ生きているのか?」「生きる意味とは何か?」という疑問があったように思います。

思春期になれば、そのような考えを持つ人も少なくないと思いますが、凡夫たる私もご多分に漏れず、そんな疑問に日々悩んでいました。このような疑問も持たず、最初から生きる目的を知っていたならば(例えそれが勘違いであったとしても)、ここまで武術に入れ込んではいなかったでしょう。

生きる意味を求めて迷走したあげく、世界に対する偏見をこじらせて、武術の道に入ったというのが、正直なところです。周囲の人間は、みな敵だったので、強くなろうとしたのが最初です。

ですので、私にとって、「武術」と「生きる目的」というのは、決して切り離せないものです。

世の中には、かつての私のように、生きる目的を求めている方もいらっしゃるかと思います。

修行中の我が身で差し出がましいのは承知しておりますが、そのような方々が少しでもヒントを得てくれたら良いと考え、これからしばらくは、私なりに「生きる目的」というものについて、お話しさせていただくことにした次第です。

人はそれぞれ、持って生まれた才能がある

現時点で私個人が採用しているのは

「持って生まれた自身の才能を磨き、自然のままに生き、死んでいくこと」

といった考え方です。もちろん、この「自然のまま」というのは、欲望のまま好き勝手に生きるという意味ではありません。

人間には個性があり、それぞれが、この世に生まれた際に何らかの能力を与えられております。生まれながらに人は差異があり、得手不得手があるのは、多くの人が経験を通して感得されているかと思います。誰しも平等に能力が与えられ、努力をすれば何でも出来るようになる、というものではありません。

才能。それは確かに存在しており、その才能を磨くことで人生は豊かになります。なぜなら、才能を磨くことは楽しいことであり、磨くこと自体が豊かな日々を約束するからです。例え、そのプロセスが他者から見て苦痛に満ちていたとしても、当人にとっては、その苦しみさえも楽しみの一部でありましょう。
逆に、磨いていて楽しくないのであれば、それは才能ではないと私は考えております。

自分には才能がない。そう思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。
が、絶対にそんなことはないのです。人と比較すれば、非凡、平凡というランク付けが行われていまい、分かりにくくなりますが、「すっと自然に上手く出来ること」や「他の物事よりも集中して打ち込めること」が、あなたにもきっとあるはずです。

才能が示す目的を果たすのが「自然のままに生きる」ということ

では、その才能は、なぜ備わっているのでしょうか。
そこに意味を求めるのであれば、「その才能を磨くことで、世の中が善く発展することに寄与するため」であると私は感じます。言い方を変えれば、「自身の才能を磨くことが、世の中をより良く発展させること」につながるのです。

様々な面から思索すると、世界は「今この瞬間よりも、更に心地よく、更に美しく発展しようとしている」という仮説が導かれます。人間に備わる本能は、通常、心地よく美しい物事を好みます。心地悪くて醜いものを好む者は稀であります。また、大地の草花は心地よい環境において自身の美しさを開花させ、天は太陽の光や風雨で地表に潤いを恵みます。

であれば、世界の一部である個々人もまた、世の中を発展させることが「自然のままの姿」でありましょう。退廃ではなく、発展です。そのために、自然の一部である人間には、それぞれ異なった才能が与えられているのではないでしょうか。

草木や動物に比べると、与えられた知性や体の仕組みが多様であるために忘れがちですが、人間は世界の一部であり、大自然の枠組みから外れた存在ではありません。確かに人間は、特別な存在でありますが、自然や宇宙という目線から考えると、ほんの小さな存在に過ぎません。いわば、自然というジグソーパズルを構成するピースであります(これは、絶対的な存在である唯一神が人間を創造したとする一神教的な世界観とは異なりますが、それについては、ここでは触れません)。

ただし、与えられた才能を磨くのは、あくまでも世の中の発展に寄与することが前提であり、意図的に、退廃や後退の方向に用いるのは、自然の流れに反するものです。それらの行為を行うと、世の中だけではなく、自身の心に負担をかけることになります。

自然のままに生きるとは、傍若無人、自分勝手にふるまうことでは決してありません。磨かれた才能が示す目的を果たすことです。それこそが、即ち生きる目的なのだと、私は考えております。日本で偉業を成し遂げた多くの先人も、このような思想が土台にあったように思えます。

日々を楽しみ、世の中に善を蒔く

生きる目的、と言うと大仰であり、難しく感じますが、普段の生活では「自分の才能を磨いて、世の中にとって良いことをする」と心掛けていれば、ズレることはないと思います。このような人生は、本当に心地よく、人生の楽しさを実感できるものです。また、自分自身の生きる目的にも適います。

昨今、社会に奉じる者を偽善者などと口汚く罵る輩も少なくないようですが、善は人間が好むものであり、善を行うのは、ごく自然な行為であります。善を行うことが自他の幸福につながるのですから、雑音を気にする必要はない。遠慮せず、恥ずかしがらず、自身の才能を発揮して、善を行えば良い。

ただ、現実的な問題として、社会的な生物である我々は、生命を維持するために、食料や住居を確保する必要があります。家族も養わなくてはなりません。日常の仕事が生きる目的に直結するのが理想ですが、そうでないことの方が多いでしょう。

ですが、そのような状況そのものが、才能を磨くことに役立ちます。陽明学で言うところの「事情磨練」であります。どのような状況でも、心の置き所一つで、如何様にも変化します。苦しい環境が自身を磨くチャンスであるのなら、それは即ち生きる目的に直結します。忌避すべきものではなく、それを活用することが、自他の利益をもたらしてくれます。

そして、事情磨練の気概を養うのに武術は有用であると、私は考えております。

比較することに意味はなく、自身の役割を全うする

以上、私なりの「生きる目的」というものについて、簡単にお話させていただきました。
もちろん、これが全ての人にとって正しいというつもりはありません。共感して下さる人、受け入れられない人、様々でありましょうが、あなたにとって何らかのヒントになったのなら、嬉しく思います。

常々感じるのは、「人にはそれぞれ役割がある」ということです。
人はそれぞれ異なった才能があり、生まれた環境も違っている。矢面に立って注目を浴びる者、それを陰から支える者、対立して相手を磨く者、傍観しながら新たな価値を見つける者。本当に様々です。

いつの時代も、目立つ者が持て囃されるわけでありますが、自然や宇宙という大きな視点で鑑みれば、地道に自身を磨いて役割を全うする者は、等しく尊いと私は感じます。綺麗事ではありません。相対的ではないのです。どんな小さなことでも、自然のままに自身の力を発揮すれば、世界の発展につながるのですから。無価値なわけがない。

繊細な人は、他人と自分を比較することで、落ち込んでしまうことがあるかもしれません。
ですが、他人と比較することは全くの無意味です。人それぞれ、役割があります。その役割のために、異なる才能が与えられているのです。今よりも更に上を目指すことは大切ですが、他人との比較で自己を卑下するのは、人間の営みとして間違っています。

難しく考えずとも、日々、自分と向き合っていれば、不思議な縁がつながります。自身に与えられた才能が、生きる目的を示してくれます。

そして、日本の武術が、まっすぐに道を求めるあなたの助けになってくれたら嬉しい。そのために、少しずつでも武術の魅力を発信していくことが、私個人の「生きる目的」であります。

共に楽しんで、一歩ずつ焦らずに、自分自身を磨いて参りましょう。

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