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心の本性は善でも悪でもないとする、陽明学の無善無悪説

2015/11/23

世界に対する信頼の形

人間関係における判断基準の一つとして、「人の本性は善であるか、悪であるか」というものがあります。
日常会話の中でも、よく「性善説」「性悪説」といった単語が出てきますが、これは、

「人は善に傾きやすく、利他の心で行動するであろう」と推測する判断基準を「性善説」。

「いや、人は悪に傾きやすく、私利私欲で行動するであろう」と推測する判断基準を「性悪説」。

といった意味合いで使われているのだと思います。

※この二つの言葉は、元々は儒教に由来する言葉であり、性善説は「孟子」、性悪説は「荀子」が唱えたものです。本来の意味は、上の例とは少し違った意味がありますが、とても一言で語れるものではありませんので、ここでは触れません。

これらの判断基準は、個々が持っている「世界に対する信頼の形」とも言えます。世界を信頼している者ほど性善説を支持し、世界を信頼せず疑う者ほど性悪説を支持している。そんな傾向があるのではないでしょうか。

また、自己を守り、上手く生きていくための戦略であるのかもしれません。性善説で他者と接すれば親しみを覚えやすく、性悪説で接するならば他者から騙されにくくなる。接する相手によって、使い分けている方もおりましょう。

いずれにしても、人は誰でも選択しているのだと思います。意識的か、無意識かは別として、自分以外の存在が信頼に足るのか、疑うべき存在であるのかを

これらを、自己が支柱とする思想としてではなく「実用的な判断を下すための方便」として捉えるのであれば、一方に固執せず、両方の考え方を併せ持つのが良いのでしょう。時と場合によってバランスよく使い分ければ、リスクを減らして上手く立ち回ることができるはずです。

ただ、場合によって使い分けるにしても、あちらを立てればこちらが立たず、極端な二元論に偏りがちです。偏りは先入観となり、判断を鈍らせます。自身の立場を堅持するあまりに、片方を否定して、自身の立場に歩み寄ることを強要してしまいがちです。そうなれば対立を免れません。その点は注意が必要でありましょう。

人の本性が知りたいという欲求

一方で、実用性とは無関係に、人間には自身の本性(の善悪)を知りたいという欲求があるようにも感じます。

人は生まれながらにして善なのか、悪なのか。この命題は、古来より多くの哲人が追い求めてきました。先に挙げたのは儒教の考え方ですが、宗教、思想、それぞれの立場によって、多様な説が生まれています。

なぜ人は、自身の本性を知りたいと願うのでしょうか?

そのようなことは、知らなくとも生きてはいけます。それなのに、追い求める人は決して少なくないのです。

先に少し触れたように、「人間関係を円滑にして上手く立ち回るための基準を得る」という意味合いもありましょう。自身の中で、目安となる基準を設けておけば、言動に一貫性を保てます。日々の生活や仕事に役立てるのであれば、このような使い方が有用でありましょう。

ですが、そのような実利以外の部分で、心のどこかに善悪を知る欲求があるのではないか。元より人間の本性を模索する存在なのではないか。そんなことを強く感じるのであります。

であるならば、それは同時に、「人間の心には、元来、善悪を感知するための機能が存在している」という解釈につながります。

判断基準、即ち、世界の善悪を判断する機能が備わっているがゆえに、その機能が発露した際に、最も身近で本体であるところの「自分自身」という存在の善悪を図ろうとして、副作用的に本性を知りたい欲求につながっているのではないかと、そう感じるのであります。

陽明学の祖、王陽明は、このような基準を「良知」と言い、全ての人間の心に、先天的に備わっていると説きました。良知が発揮される時、人は自ずと善悪を知り、正しい判断を下すことができると。そしてそれは、宇宙の理そのものであり、良知を発揮した上での言動は正しい行動(善)に他ならない、としたのです。

簡単に言えば、「人間の本性は生まれながらに善悪を知っていて、善を行うようにできている」ということです。その理に回帰するために、人間には自身の本性を知りたい欲求があるのではないかと考える次第です。

善でなく、悪でもない、だがどちらも共存するという「四句教」の世界観

人間の本性が善を行うのであれば、それは「性善説」の一種ではないのか? そう感じた方もおられるかもしれません。

確かに、陽明学の至良知の思想は、性善説と捉えられることもあるようです。が、陽明学の祖、王陽明は、晩年に「四句教(しくきょう)」の中で、「無善無悪」という教えを残しています。

無善無悪是心之体
有善有悪是意之動
知善知悪是良知
為善去悪是格物

善無く悪無きは心の体
善有り悪有るは意の動
善を知り悪を知るのが良知
善を為し悪を去るのが格物

これだけでは難しいですね。私なりに要約してみます。

心の本体に善い悪いというものはない。
人間の意志が動いたときに初めて、善や悪が生じる。
だが同時に、生じた善悪を判断し、善を行うための機能が備わっている。それを良知という。
良知を働かせて自然に善を行い、悪を去らせる境地が格物(世界の理を悟ること)である。

浅学ゆえ、少々不安の残る要約ではありますが……。

※四句教は、人によって解釈が異なりますので、ご興味がある方は、ぜひ一度、ご自身で調べてみて下さい。

とにかく、心の本体に善悪がないと論じているのが画期的なのであります。これは、儒学の中でも他に類がなく、もちろん朱子学にもありません。むしろ、仏教に近いのかもしれません。

心の本体は人間の意志を超越しているという本質論と、良知を発揮して社会をより良くしていくという現実的な方法論が、見事に融和しています。

時と場合によって、善に寄ったり、悪に寄ったりするけれど、心の本体は「無善無悪」であるがゆえに、完全なる善は存在せず、また、完全なる悪も存在しない。
そのような観点を持てば、あいつは悪人だから信用すべきではない、あの人は善人だから疑うべきではない、といった極端な対応をしなくても良くなります。

物事を善悪二元論で考えてしまうと、最終的には対立を余儀なくされます。性善説、性悪説、いずれにも理はあるのでしょうが、突き詰めれば対立となり、一方を排除せざるを得ません。

そのような、対立構造からの脱却を促してくれるのが、無善無悪の思想です。
日本の武士たちが陽明学を受け入れやすかったのは、案外このような性質がしっくり来たのかもしれません。

悩みが多い人は、正義に偏りすぎている

現代社会は、どうにも不寛容な方向へと突き進んでいるように感じます。

自分のことを正義だと信じ込み、他者を悪人と断じた瞬間に徹底的に批判して糾弾する。そんな風潮が、目立ってきてはいないでしょうか。
まるでそれが義務であるかのように、病的とも言える熱意で攻撃を繰り返す人がいる。そして、そのような人の私見が、あたかも世論であるかのように拡散されてしまう。

確かに、悪いことをしている人を諭すのは大切なことでありましょう。悪を放置しておけば、世の中が乱れるのは必定です。
が、悪を行う人にも、その人なりの理由があるわけで、自分が悪を行っていると考えている人は稀でしょう。むしろ、正義と正義の対立になるという構造が常であります。

善のための動きが、世の中を窮屈に、息苦しくしていく。
そして、善を行っている者もまた、悩みや苦しみが募っていくことでしょう。善は常に対立する悪を必要としており、自分が善であろうとするならば、悪を探し続ける必要があるからです。

自分は性善説を支持する、いや性悪説だろう、といった観点も良いのですが、いずれかに偏りすぎると、対立が生じてしまいます。対立は、行き過ぎると不寛容さに変化します。先に挙げた例においても、その根底には、性悪説的な判断基準があるような気がしてなりません。

不寛容なのは、誰のためでありましょうか。
本当に、世のため人のためでしょうか。
単に自己満足の手段ではないのでしょうか。
それは本当に善と言えるのでしょうか?

これからの時代、一人でも多くの人が、四句教の無善無悪説が示すような、善悪を超えた観点を持つことが大切であると感じています。物事を単純な善悪で判断せず臨機応変に対応すれば、少なくとも民衆の範囲においては、無用な争いが減るのは間違いありません。

陽明学で言うところの良知が示す善は、徹底的に敵を糾弾するというようなものではありません。もっと別の、単純な善悪では計れない機微を含んでいます。これが善だ、というような明確な基準はなく、時と場合によって柔軟に変化します。
心の本性は善でも悪でもなく、対立しなくても充分に成り立つのだと、陽明学の無善無悪説は教えてくれます。

もし、心のどこかに「人は善であるべき」「人は悪であるべき」というような囚われがあるのなら、一度、それを手放してみると良いのではないでしょうか。

私が言うまでもなく世の中は多様であり、一つの基準だけが正しいという二元論では行き詰ります。
周囲を活かし、なおかつ自分も苦しむことがない。そんな懐の広さが、この無善無悪の思想にはあるのです。

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