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武術は暴力を磨くための方法ではない

2015/11/03

武術を「思想」として定義する

前回は、武術を戦闘技術として捉えた場合、意外と早く限界が見えてくるということをお話ししました。

⇒【前回:戦闘の手段としての武術の限界】へ

実際、現代の日本で、物事を解決するために武力が用いられるシーンはほぼ皆無であり、それを目的として武術を学んでも、得られるものが少ないのは自明であります。

であれば、武術など、学ぶだけ時間の無駄なのでしょうか?
そうではないと、私は断言します。

そもそも、全ての問題を暴力で解決しようというのは、時代を問わず歪んだ思想であり、狂気であります。また、ほとんどの武術者は、そのような思想に基づいて稽古に励んでいるわけではありません。

武術の稽古は、見た目こそ戦闘行為の予行練習のように思えますが、中身は全く違います。もちろん、戦闘行為の習得を目的とすれば、それを高めていくことはできます。が、修行の日々の中で精神が変わってくると、敵を倒すこと以外に、自身と向き合う機会が多くなります。

そうなれば、戦闘技術の向上よりも、もっと別のことを求めるようになってきます。どれだけの熱意と真剣さで求めるのかは、個人の思想や生まれ持った縁によって差がありますが、それぞれの求めに応じて「戦闘技術以外の素晴らしい成果」を示してくれるのが、日本の古流武術であります。

用途が限られているとはいえ、平時は忌避されるべき「暴力」は、生死に関わる一大事にこそ必要とされます。この先、人間の精神が極限まで進化して、世の中から争い事がなくなれば別ですが、現時点では、完全に不要と一蹴することはできません。それだけに存在意義が不安定ですし、とても難解であります。

そのような難解なテーマと向き合うからこそ、人は考えます。自身の内面と向き合い始めます。
ゆえに、煉誠感は、武術を「思想」と定義しております。戦闘技術を得るためのトレーニングではありません。

思想として向き合い、考え、悩み、試し、試され、喜び、落胆し、気づき、気づかされ、感謝し、長い時間をかけて自身を練り込みます。これは、決して無駄なことではない。命と向き合い、人生を有意義にする一助となってくれると確信します。

周囲を感じ取る勘、感覚、洞察力

例えば、武術で得られる大きな成果の一つとして、「他者との関係性の感覚が磨かれる」というものがあります。
簡単に言うと、他人の気持ちや、意志の気配を読み取る能力が高まります。もちろん、個々の能力によって精度に差はありますが、少なくとも、他者から様々な情報を読み取り、感じ取るような姿勢が身に付いてきます。

これは、武術の稽古(あるいは、その延長の日常生活)の中で、「相手の動作や意志を感じ取る」という訓練を、絶えず行っているからです。訓練しているのですから、自然と、その能力は磨かれていきます。

武術では、相手の意志を感じ取れなければ、それだけ負ける可能性が高まります。剣は恐ろしく速いものですから、目で追っていてはとても間に合いません。気づいた時には、斬られています。
そのような速さに対応するには、勘を磨き、少しでも感覚を鋭くしなければならないのです。

これは、世界各地の武術や格闘技にも共通するものですが、動よりも静を求める日本の剣術は、それがより顕著となるようです。「動く禅」という表現がありますが、まさに武術、動きながら自身の内面を観察する禅であります。武士は、座って禅を組み、動いて禅を行うのです。

武術によって得られるこのような感覚は、むしろ戦闘以外に応用され、日々の生活に役立ってくれます。事前に危険を察知して回避したり、相手の意志を汲んで配慮したり。主として人間関係において活用できるこれらの成果は、現代日本においても、価値があると言えるのではないでしょうか。

周囲に善を蒔こうにも、他者の気持ちに鈍感では上手くいきません。武術を通じて感覚を養うことは、そのまま、世の中への奉仕につながると考えております。

対峙する相手の意志や目的を感じ、汲み取ろうとすること。まずは、それが大切なのであります。

死と向き合い、生を考える

あるいは、「死」と向き合い、生を意識して様々な気づきが得られるのも、武術の大きな成果かと思います。

武術の稽古を突き詰めれば、それは「死の疑似体験」と言えます。無論、それを意識して稽古に励むことが前提ではありますが、心掛け一つで、死を強烈に意識することできます。

古流の武術は、型稽古が中心であります。それは、お互いの信頼によって成り立つ約束事です。もし片方が約束を破れば、互いを容易に傷つけることができます。場合によっては大きな事故につながる危険な技を稽古するため、相手を信頼して身を預けているという構図であり、その事実だけでも、死を意識することができるのではないでしょうか。

下手をしたら自分は殺される。相手を殺してしまう。
それは、遠い世界の話ではありません。ほんの少し道を逸れたら、すぐそこにあるのです。

そして思い出します。人はいつか、必ず死ぬことに。

通常の生活において、死を想うこと、死と向き合う機会はそうそうありません。ですが、「死」というものは、人間全てに平等に与えられる重大な課題であり、「生者必滅」という真理と向き合うことで、人は貴重な気づきが得られます。死というものを体で感じることで、自身の人生の課題を見つけられるかもしれませんし、自分が周囲に生かされていることにも気づけます。「生きている」という、ただそれだけのことに、感謝が湧き上がるかもしれません。

有名な「葉隠」の一節に「武士道とは死ぬことと見つけたり」というものがありますが、これは、単に、主君に良く仕えるための処世術ではありません。
死を想い、死と親しむことで、貴重な発見がある。より良い生を模索できるからこそ、この言葉が生まれたのだと私は考えています。

人間は、生まれ、必ず死にます。武術はいつも、その事実を、知識ではなく「体感として」教えてくれます。知識ではなく、体で感じることが貴重なのです。
武術と他の宗教なり哲学なりが決定的に違うのは、この「体を通して死と向き合う」という特異さです。自分が他人を殺してしまうかもしれない。殺されるかもしれない。その事実に気付いている人間が、自他の命に鈍感である確率は、極めて低いと言えましょう。

人間としての「あり方」を求め続けることで得られるものがある

以上、いくつか例を挙げさせていただきましたが、いずれもが、「戦闘技術の習得」という武術の表面的な成果とは全く異なっております。

この成果は、人によっては全く不要なものであるかもしれません。
が、少なくとも、自他の関係性を感じ取る努力をしたり、命と向き合ったり、人間としての「あり方」を求め続けることで、貴重な気づきを得られることは間違いありません。

人間は社会的な生き物であり、また、自分自身の存在意義について悩み、試行錯誤する生き物だと思います。それは、小さな小競り合いに勝利することよりも、とても重大なことです。であれば、武術によって得られる精神的な成果も、人間としての本質に迫るためのヒントとして、価値があるのではないでしょうか。

武術を「戦闘技術を取得するための手段」と捉えれば、このような気づきは無価値でありましょう。ですが、もっと大きな視点で、武術を「思想」であると再定義するならば、これこそが武術の本質であり、枢要だと感じ取ることができます。

戦闘技術の手段としての武術も、ある局面では有用でしょうが、ごくごく限られた時にしか役立ちません。
長い時間をかけて精進するのですから、それこそ「より良い人生を歩む」ための糧になる方が、よほど役に立ちましょう。

何度も繰り返しになりますが、武術は単なる暴力ではありません。人間として生まれ、死んでいくまでの時間を「確信」を持って過ごすための手段であります。

では、その確信とは何か?
人の数だけ呼び方がありましょうが、例えば「自他への感謝の気持ち」と言えるかもしれません。他者に配慮し、死という逃れられない現実と向き合うことで、心の底から湧き上がってくるそれに出会える瞬間があります。

手っ取り早く喧嘩に強くなりたいんだ、という方には向いていないかもしれませんが、人間という存在に対して疑問を持ち、その疑問に対する手がかりを得る機会がない方は、もしかすると、武術によって何かを得られるかもしれません。

もしあなたが、そのような機会を求めておられるのなら、ぜひ一度、武術に触れてみていただきたいと思います。

武術は人の精神を良き方向に導く力があり、大の大人がわざわざ時間を割いてでも学ぶ価値があるものです。
ゆえに私は、武術を単なる暴力の手段に貶めることを、断じて否定するのであります。

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