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戦闘の手段としての武術の限界

2015/10/18

武術と聞いて世間一般の方が持たれる印象としては「戦闘の手段」というものが大半を占めるのではないでしょうか。スローガンとして精神論を説いている者はいるけれど、結局は暴力だろう、と。

しかしながら、それは断じて否であります。
少なくとも煉誠館では、戦闘の手段としての目的を第一義としておりません。

大東流にも様々な会派があり、それぞれ思想が違っています。その中でも、当会に伝わる大東流合気武術は、「武士の嗜み(たしなみ)としての一面」を重視するものであります。私は、そのように教わりました。

武術の原点である、戦闘において敵を制するという目的を軽視しているわけではありません。技術は当然磨くべきであり、精神のみに終始しては、武術としてのアイデンティティを失います。
ただ、原理主義的に武術という字面を捉えるばかりでは、社会に適応しない「道場内だけでしか通じない閉じた思考」を作り上げてしまいます。そのような者が、他者から認められますでしょうか。

武術は骨董品ではなく、時代に応じて変化し、人々の救いになるべきであるというのが、煉誠館に伝わる大東流の思想であります。

但しこれは、先人から受け継いだ武術という文化を、形を変えず、そのまま後世に伝えるという目的で活動される会派を否定するものではありません。あくまでも煉誠館の考え方であるということを、念のため、申し添えておきます。

現代は戦国の乱世ではない

煉誠館が武術の戦闘的な側面を第一義としないのは、単純に「暴力のみに長けている狂人は、現代の世に必要とされていない」からであります。現代に生きる我々は、戦闘者である以前に、社会の一員であります。

であれば、磨くべきは「社会の一員として、人間として如何に生きるか?」という命題に対する部分であり、暴力のみを追い求めて人間性をおろそかにしていたのでは、社会に害をなす人間になってしまう可能性があります。

かつての武士階級においても、そうであったことでしょう。人間としての自己を顧みず、剣の腕のみを高めた人は、人生を有意義に送れたでしょうか。武士として周囲から尊敬を集めて、誇り高く生きられたでしょうか。死を迎える瞬間、後悔はしなかったでしょうか。

現代においては、国防の礎たる自衛官の方々も、概して高い人間性を伴っているからこそ、民衆から支持を得ておられます。もし、自衛官の方々が「手にした銃で敵を殺すのが仕事だ」「自分たちの存在意義は戦闘技術に長けていることだ」というような思想の持主ばかりだったとしたら、信頼は著しく低下することでしょう。

現代の日本は、表向き平和であります。戦国時代のような乱世ではありません。斬れれば良い、叩ければ良い、倒せれば良い。そレが武術の全てであったとしたら、心ある人々から理解されるわけがない。かつての武士が練り上げ、日本精神の精髄として昇華された武術という文化を貶めるのは、非常に嘆かわしいと私は考えています。

また、戦闘技術と精神性を両輪として扱うからこそ、武術者は、通常では成し得ない感覚に至ることが出来ます。武術には、人を倒すことばかり考えている者では、絶対に至れない感覚があります。
人殺しの技のみを追及している者は、ある局面では確かに強いわけです。が、武術を正しく学ぶことによって得られる人間としての喜びは、永遠に知ることが出来ないでしょう。

武術で近代兵器にどう対応するのか

そもそも現代において、武術の技法は、使える局面が限られています。
純粋な戦闘技術としての限界を、いくつか挙げてみましょう。

1.集団を相手にした時に対応しにくい

古流の武術は、敵一人、自分一人という状況を想定して、技術や型が組まれております。
これは多数の敵を想定してないというよりは、状況を絞り込んで稽古した方が心身の練りこみに適しているということです。技術と型は「流派のエッセンスを心身に写し取る」という意味合いが強いので、そのままの形で用いるわけではありません。
目論見として、一対一という稽古を積めば、心身が自由になって集団を相手にしても対応できる、という期待があるわけです。

が、やはり現実はそんなに甘いものではありません。集団を相手にした時の厳しさは、想像を絶するものがあります。
対峙した全員の実力が、自身を圧倒的に下回っているのであれば対応できます。自分一人だけが武器を持っていたとしたら、まだ勝負になるでしょう。

が、相手集団の中に、相応に鍛えている者が複数人混じっている時や、集団戦に長けている者がいた場合は、本当に厳しい。こちらが目の前の相手に斬り込んだ瞬間、左右後方から同時に襲い掛かられたら、よほどの実力がなければ回避することなど不可能です。相手を抑え込んでの寝技や関節技も、ほぼ使えません。

大東流の剣術や柔術には、「多敵之位」「多数捕り」など複数人を想定した稽古があります。煉誠館においても、複数人に対峙するという状況を思い出すためにも、時折このような稽古を行うわけですが、実際にやってみると、その難しさを思い知らされます。現代人の通常の稽古量では、なかなか集団に対応するのは難しいでしょう。

2.護身の意図があったとしても、相手を傷つけると相応の責任を負う

現代の日本では、相手を傷つけると法律で裁かれます。例え、こちらに正義があり、言い分があったとしても、暴力で物事を解決するのは、本当に最後の手段です。
特に、武術を学んでいる者が、理由はどうあれ相手を傷つけた場合、過剰防衛とされてしまうこともあるようです。

大切な家族を守るため、やむなく過剰防衛になってしまったのであれば、まだ納得できるかもしれない。自身の人生を棒に振ってでも倒したかったのであれば、称賛はされないかもしれませんが、気持ちは理解できます。
が、もし、軽い気持ちで武術の技を用いてしまい、相手を傷つけたのなら最悪です。裁判、慰謝料、懲役など、後の人生を後悔と償いで過ごすことになります。

日本の武術、特に柔術は、護身という意味合いが強く、相手に致命的な傷を負わせることなく場を収めることも可能です。それを目指しています。ただ、使い方によっては、関節を壊したり、行動不能にするような危険な技も存在します。

いざ戦いになった時、よほどの精神力がなければ、平静ではいられません。必死になり、我を忘れて応戦するというのが現実でしょう。そうなった場合、相手の無事を気遣うことは難しい。受け身も知らない相手であれば、軽く突き飛ばしただけでも、転倒して頭を強打し、死に至る可能性もあります。

私個人としては、そのようなリスクがあったとしても武術は学んでおいた方が良い、という立場におります。が、どれだけ護身を強調しても、自身を護るために相手を傷つけるという構図には変わりがないのです。そこが、とても悩ましいところです。よくよく修練し、圧倒的な実力差を付けた上で、なるべく争いを避けるしかありません。

3.銃などの飛び道具への対応が難しい

これも大きな問題なのですが、武術を純粋な戦闘技術として見た場合、銃などの飛び道具に対応するのは非常に困難です。古流の武術では、弓矢を防ぐための技法などは存在しますが(ただし、難易度はめちゃくちゃ高いです)、銃に対峙した時の備えは皆無です。

銃にどうやって対抗するのか。私も、大いに悩んだ時期があります。

こちらも飛び道具で対抗するという手段を考え、手裏剣を重点的に稽古したこともありました。ですが、普段、手裏剣を持ち歩くわけにはいきません。それをやってしまえば、不審者です。また単純に、どう考えても、手裏剣より銃の方が強力です。達人の領域まで修練すれば、手裏剣で銃に対抗することも可能かもしれませんが、それだけ習得に時間がかかるのであれば、護身術としては機能しません。

であれば、体捌きで軸線を合わせないようにすれば良いのではないか? 相手の意識を読むことができれば……など、色々と研究しましたが、まあムリです。拳銃を持った者一人が相手なら、場合によっては九死に一生を得ることも可能かもしれませんが、マシンガンを持った者複数に囲まれたら、それはもう絶望的です。

合気道の開祖、植芝盛平先生は、銃弾が飛んでくる前に白い光が見え、その光を避けることによって銃に対抗した。というような逸話をお持ちですが、それができる者は少ないでしょう。

4.ミサイル、核兵器にどう対抗するのか

これはもう、説明するまでもありません。武術の技法は、近代兵器の前では無力です。

武術は人間を相手にするものであり、そこまで想定するなど馬鹿げている! そうかもしれません。ここまで範囲を広げてしまえば、もう政治や兵法の世界に入ってしまいます。

ですが、暴力というのは、お互いに折れなければ、どこまでもエスカレートするものです。最終的には殺し合いに発展するのが、人間を憎むという行為であります。
さすがに個人間の闘争でミサイルまで打ち込まれはしないでしょうが、決して甘く考えず、武術の戦闘技術としての限界を意識しておくことは、とても大切です。

私が、曽川和翁先生に弟子入りをした時、一番初めに聞かれたことがあります。

「君は、武術でどこまで強くなりたいのか?」

それに対して、私は、知る限りの技術論で返答しました。そして、

「武術の技では核ミサイルを止めることは出来ん。個人が強くなったところで、たかが知れとるわ。何のために武術を学ぶのか、よくよく考えよ」

と、強くなることに必死だった当時としては、あまりにも衝撃的な言葉で諭していただきました(この時のお話は、また別の機会に)。

常識的に考えれば自明のことなのですが、強さを追い求める先には罠があります。前提条件を大きな視点に変えてみれば、武術の技法は、あまり役に立ちません。兵器が発達した近代なら尚更です。

当たり前ですが、暴力で解決できることは少ない

以上、身も蓋もない例で申し訳ないのですが、武術の技法面での限界を紹介させていただきました。武術を学ぶ人にとっては面白くない内容なのですが、限界を知っておくことは大切なので、あえて否定的にお話しております。

もし武術を暴力の手段としてのみ捉えるのであれば、実際に使える局面は限られていますし、追い求めれば追い求めるほど、心ある人から軽蔑されることになります。

現代の日本において、暴力で解決することなど、本当に少ないわけです。もちろん、護身術としては価値がありますが、どこまでが暴力で、どこまでが護身術かという線引きが課題となります。

武術を学ぶ者は、最初のうちは必死で戦闘的な強さを追い求めます。が、ある程度の実力を身に付けた後は、自問自答を始めます。一度は武術を否定するのではないでしょうか。
なので、最初のうちは、あまり難しく考えず、暴力に対抗する強さを追い求めても問題ありません。人間としての「在り方」を真摯に求めれば、武術は貴重な気づきを与えてくれましょう。

そして、その時こそ、武術のもう一つの価値に気付きます。それこそが、武術の本質であり、枢要だと私は信じています。

長くなってきましたので、ここから先は、次回にお話させていただきます。

⇒【続き:武術は暴力を磨くための方法ではない】へ

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